中世のお城の研究史(1980年から2011年まで)
お城は、江戸時代の軍学以降、現在に至るまで、様々な方法で調査・研究されています。その成果は膨大なものであり、とてもここで掲載しきれるものではありません。
お城の研究が歴史学の一分野として日本史の研究者に認められたのは、1980年の村田修三氏の研究によるものでした。それ以降、2000年代にかけて、縄張り研究、考古学、文献史学の各分野で研究が個別に進展し成果をあげていきました。
しかしながら、個別に進展したものの、他分野の研究成果を取り入れて、中世社会をお城を軸に明らかにしていこうとする動きには至っておらず、各分野が連携して総合的な研究を模索する必要がありました。
その中で起こったのが「杉山城問題」でした。この問題により、各分野の課題が明らかとなり、各分野の連携はその課題を克服してからになっていきます。
ここでは、1980年の村田修三氏の提言から、2011年に「杉山城問題」の論点が整理されるまでの研究史を追っていきます。
【目次】
- 研究の確立(1980年代)
- 研究の多様化(1990年代)
- 総合的研究の模索と「杉山城問題」(2000年代)
- まとめ
研究の確立(1980年代)
○村田修三氏の研究
中世のお城の研究(以下「城の研究」とする)の歴史は古く、江戸時代にまでさかのぼる。100年以上の分厚い研究の歴史があるわけだが、残念ながら、1970年代までの城研究は、「民間の研究」として位置づけられており、歴史学の一分野として認められていなかった。
小室栄一氏や、山崎一氏のように、長い年月かけて、多数の城を調査し、その成果を公表した方々は多数いた1)。その功績は、現在の城の研究の基礎となるものであり、十文な敬意を表すべきである。しかしながら、城の歴史や現況を詳細に把握しても、そこから「中世社会を明らかにする」段階には至っていなかった。そこが、歴史学の一分野として認められなかった最大の要因であった。
そのような中、村田修三氏は、論文「城跡調査と戦国史研究」を発表した。1980年に『日本史研究』211号に掲載されたこの論文は、すでに数多くの業績をあげていた村田氏の論文ということもあり、大きな注目を集めた。
村田氏はこの論文で、縄張、つまり、城の現況遺構の調査が、城の研究の最重要部分をなすとし、「縄張が城郭研究家によって鋭意解明されつつあるにもかかわらず、学界の科学的な調査においては相対的に手薄な部分となっている」(83頁)と指摘した上で、「大和(筆者註:奈良県)をフィールドにして、縄張調査事例によって、戦国期社会の分析に若干の素材を提供することを試み」た(83頁)。この論文で示した成果は、以下の点である。
- 縄張調査によって、城の機能と年代、築城主体を推定できる。
- 環濠集落と城の関係。縄張調査により、環濠集落内に「居館相当の内郭」が存在するか否かで、土豪の支配が強いか弱いかを把握することができる。
- 城の立地と規模と、築城主体の勢力圏は関係する。比高が低く、小規模で集落に近接した城は、築城主体の領主化の低さと村落との密着度の高さを示す。また、比高が高く、大規模で集落から離れた城は、築城主体の領主化の高さと村落との密着度の低さを示す。つまり、前者の築城主体は、小規模な国人・土豪層であり、後者のそれは、有力国人や外部勢力である。
村田氏の論文は、城の現況把握と考察が、「中世社会(特に地域史)を明らかにする」手段として有効であることを示した点に特徴がある。これは、それまでの研究課題を克服しようとしたものであり、氏のこれまでの実績もプラスに働き、これ以後、城の研究は、歴史学の一分野として定着させる道を開くこととなった。
○城の位置・現況把握調査の進展と「全国城郭研究者セミナー」の開催
村田修三氏の論文が発表される時期に前後し、中世の城の把握調査が行われた。その成果としてあげられるのが、新人物往来社が刊行した『日本城郭大系』と、各自治体が行った分布調査である。
『日本城郭大系』は、1979年から1981年にかけ、新人物往来社が刊行した本で、本編18巻と別巻2巻の計20巻からなる。日本全国の城・館について、県別に網羅し集成したもので、城の位置や、現在残っている城の状況を図(縄張り図)を用いて解説している点に特徴がある。城の歴史を記述する際、文献史料の出典を書かないなど、問題点もあるが、膨大にわたる全国の城の位置・現況が整理された点は高く評価できる。また、一般の人にも入手しやすく、全国の民間研究者・愛好家などの基礎資料となった点も評価すべきであろう。
各自治体の分布調査は、1966年度に調査を行った埼玉県をかわきりに、1960年代後半から1980年代前半にかけて多く行われ、近年においても、2003年に大分県・香川県が報告書を刊行している。
『日本城郭大系』と同様、城の位置や、現在残っている城の状況を図(縄張り図)を用いて解説し、さらには、普段見ることが難しい地籍図を掲載した点が特徴としてあげられる。自治体によって報告書の質は様々である、一般の人には入手しづらい、という問題点はあるが、膨大にわたる全国の城郭の位置・現況が整理されただけでなく、自治体の調査のため、今後の発掘調査などの基礎資料となった点は高く評価すべきであろう。
以上のように、新人物往来社が刊行した『日本城郭大系』と、各自治体が行った分布調査により、各都道府県に数百あるといわれる中世の城の位置・現況把握が行われ、研究を行う際の基礎データが充実することとなった。
研究を行う際の基礎データが充実するとともに、研究成果を発表する場が設けられるようなった。その代表格が、1984年に開催された、「全国城郭研究者セミナー」である。
「全国城郭研究者セミナー」は、1984年以降、全国的な城研究者の研究発表・情報交換の場として年1回テーマを決めて開催している。現在も開催されており、城の現況遺構を図化し、それをもとに考察する、いわゆる「縄張り研究」(以下、縄張り研究、または縄張り研究者とする)だけでなく、考古学や文献史学の研究者も参加しており、学際的研究の場として、研究の進展に大きく寄与している。
こうして歴史学の一分野として認識されはじめた城の研究であるが、その後、城の研究は、縄張り研究を中心に、城の軍事面を検討し、現況遺構から築城者や年代を把握する研究を進めていく。村田修三氏自身も、「軍事施設であることに独自性のある城郭を扱う場合、まずその軍事面にせまる縄張り研究が重視されねばならない」と述べ2)、現況遺構の図化とその解読に重点を置いている。
しかし、このような縄張り研究中心の研究動向に対し、他分野の研究者から少なからぬ批判を受けた。特に厳しい批判を行ったのが、橋口定志氏である。橋口氏は、1985年に開催された第2回全国城郭研究者セミナーにおいて、縄張り研究の問題点を指摘した3)。指摘した問題点は以下の3点である。
- 現況遺構を図化しても、遺構の最終段階を地表面観察したにすぎず、各段階の遺構の変遷を追うことができない。
- 地表面観察では見えない遺構が評価できない。
- 遺構の把握を行う際、主観性が強い。
橋口氏の指摘は的確であった。これにより、縄張り研究者は、この課題をいかに克服していくか苦心することになる。
さらに橋口氏は、軍事面の検討を軸にする研究方法についても、「軍事施設であることに独自性を狭めてよいのであろうか」「城館研究が、敗戦前の要塞研究の枠組みに縛られた『城郭』研究の水準から早く脱却することを望む」と厳しく批判した4)。
こうした批判に対し、村田氏は、「早晩、城郭研究は考古学研究者によって担われるようになると思われるが、その段階でも縄張り把握は城の年代比定の重要な要素であるだろう。古墳の形態編年のように」や、「城郭編年が進めば、従来天正初年止まりの在地の国人の城と思われてきた山城に、新しい年代の遺構を確認し、その城を再使用した権力の在地支配をクローズアップして地域史を補強することもできよう。」と述べ、縄張り研究が地域史研究に必要であることを主張した5)。しかし、橋口氏の批判をかわしきることはできず、「私の仕事の中で権力構造・社会構造と城郭との関係が希薄になったととられがちな傾向があったことは反省している」としたうえで、城の独自性は軍事面であるとし、「史料学の客観的な物指を軍事的な縄張り分析の中で確定する作業が必要だと判断して、とくに軍事技術的に突出した城郭をサンプルに選んできたことも間違っていなかったと思う」と改めて縄張り研究の必要性を主張している6)。
しかし、「軍事技術的に突出した城郭をサンプルに選んできたこと」についても、橋口氏は「その時代の中で突出した構造を持つ城館だけが評価の対象になる危険性を、常に伴っていることは忘れるべきではないだろう。在地性の強い大多数の城館が切り捨てられることのない、さらに別の視角からの編年論を構築していく必要性は、いまだ存在していると言える」と述べ、「城館の編年に際しては、個別部分の構造を取り上げる方法が具体的な基準を作る基本であろうが、それのみに限定した検討は軍事的諸要素だけを中心とした編年に陥りやすい。またそうした観点だけからでは、城館の発達史総体を見通す体系化を進めていくことは困難を伴うことが予想される」と警鐘を鳴らした7)。
ここからは私見となるが、この村田氏の主張と橋口氏の批判は、城の研究をめぐる問題点が次々と提示された点で評価できる。このような論争が起こった背景は何であろうか。
理由の1つとして私が考えるのは、城研究者(特に縄張り研究者)と他分野の研究者で、
「村田氏の論文により、城の研究のどの点が、歴史学の研究方法として有効であると捉えられたか。」
この点で認識が相違しているからではないか、ということである。
つまり、文献史学を中心とする歴史研究者は、市村高男氏が「中世城郭跡という遺跡=モノを、地域史と在地構造分析の史料として活用する方法を具体的に提示」したと述べ、齋藤慎一氏が「畿内の中世城館の構造と地域社会構造との連関を指摘し、城館研究の有効性を説いた」と述べたように8)、「中世社会を明らかにする」手段として、城の研究が有効であると認識していた。
しかし、縄張り研究者を中心とする城研究者の認識は異なる。縄張り研究者の代表的存在である松岡進氏が、村田氏の研究が当初「遺構の軍事的側面の分析以上に立地や規模が重要な論点をなし、城館を通じて権力編成をとらえるという視点が鮮明であった。79年の日本史研究会大会報告は、これに軍事面の検討を付け加え、築城主体の性格やその年代を導き出した点に大きな意義がある」と述べたように9)、縄張り研究者は、「軍事面の検討」により、築城者や築城年代を導き出した点をより評価し、この方法が認められたと認識していた。
この結果、縄張り研究者は、以前から進めてきた方法論を深化させる道を選び、編年の構築や戦国大名独自の築城術を明らかにしようと模索していく。その結果、橋口氏らの批判を浴びる結果となったのである。
しかし、前述の通り、村田氏の城の研究は、権力構造・社会構造と城との関係を明らかにするための手段として、軍事面の検討を軸としたものであった。縄張り研究の問題点を克服しつつ、いかに城研究者と他分野の研究者との認識のずれを補正していくか。この課題を克服する契機となったのが、千田嘉博氏の研究と、藤木久志氏の「村の城」論に基づく研究であった。
「城郭遺跡を歴史研究の素材とするためには、集成した城郭の平面構成資料に、考古学的操作を行って、城郭変遷の年代軸をつくることが重要」として、織田氏・豊臣氏・徳川氏関連の城の分析を行い、編年を組んだのは、千田嘉博氏である10)。千田氏は、織田氏・豊臣氏・徳川氏関連の城を「織豊系城郭」と一括し、城の出入り口(虎口)の発達を現況遺構及び発掘調査から5形式に区分した。
千田氏の目的は、「遺構を考古学的に分析して城郭の平面構成の編年を組み、そこから地域の在地構造の変化を説いた研究はほとんどない。各地域の多様な城郭それぞれに、そうした編年が求められているが、各地の城郭の年代基準や平行関係を見極めるためにも、統一政権に関わる城郭の編年を確定することがもっとも急務であろう」と述べ、「戦国-近世初頭にかけた城郭の発達過程を明確にすることで、遺跡から織豊政権・織豊期社会の研究に寄与する」ことであった11)。
遺構の最終段階しか把握できない縄張り研究の限界をふまえ、検討する城の時期を戦国時代末から江戸時代初期に下げたことは、遺構の最終段階しか把握できない縄張り研究の限界をふまえたものであった。そして、村田氏の目指す権力構造・社会構造と城との関係を明らかにするための手段として、軍事面の検討を行い、一定の成果を出したことは、橋口氏の批判に応えるものであったといえよう。
また、城の研究への影響も大きかった。主に縄張り研究者によって、千田氏の論考に刺激され、いわゆる「戦国大名系城郭論」「パーツ論」と呼ばれる研究が流行したのである。この点については後述する。
○「山小屋」の指摘
前述の通り、千田氏の論文は、橋口氏の批判にある程度応えるものとなったが、「その時代の中で突出した構造を持つ城館だけが評価の対象になる危険性を、常に伴っていることは忘れるべきではないだろう。在地性の強い大多数の城館が切り捨てられることのない、さらに別の視角からの編年論を構築していく必要性は、いまだ存在していると言える」という批判には応えられていなかった。
この点に応える契機となったのが、1984年に発表された、井原今朝男氏の「山城と山小屋の階級的性格」である12)。
井原氏は、中世の城が実際どのように使われていたかを、史料と現況遺構の双方から考察し、中世の城を、「家中・在番衆や有力被官ら侍身分の入城する所であり、それ以下の幼弱被官や職人や百姓身分の者は排除されていた」場所とした。また、城とは別に「山小屋」という「防御施設」が存在し、「幼弱被官、地下人、百姓ら」は、「山小屋」に配置され、「消耗用の軍勢として戦国大名によって動員されていた」と述べた。
井原氏の論文は、「山小屋」という被支配者が入る防御施設が存在していたことを示したことで、支配者が入り守備するものと考えられてきた、従来の城の考え方に一石を投じたものであった。また、「いままで意味不明のまま放置されてきたきわめて簡単な構築物である山小屋にこそ、注目すべきものがあるように思う」と述べ13)、「簡単な構築物」、つまり、大名などの居城や拠点以外の城の遺構の検討が必要であるとした点も重要である。
このように、井原氏の論文は、この論文を評した市村高男氏の言葉を借りれば、「この井原山小屋論の提起を契機として、権力から民衆までを含めて中世社会論へと発展させうる途が初めて切り開かれ、その後の研究に少なからぬ影響を与えることになった」14)のであった。
なお、私見になるが、上記の成果以外に、「特に、現在『山城は何か』という根本問題については定説もなく、尾根筋や山腹での構築物や遺構にしても、要害・山城・砦・根小屋・狼煙台など多様なものが定義なしに漠然と用いられ、近世兵学の伝統や伝承が無批判に継承されているものが数多くみられる」15)という井原氏の指摘も、上記の成果と同様に、重要である。
同様の指摘は、市村高男氏や、中澤克昭氏も行っている16)。井原氏の指摘は、両者の指摘の先駆となるものと言えよう。
○「山小屋」論争の展開と「村の城」論
井原氏は、「山小屋」を「防御施設」としたが、それを批判し、「当時社会的慣習として存在した山のアジール性を前提にして、戦乱から避難するために用意した建物であった」と述べたのは、笹本正治氏である17)。
笹本氏の指摘により、「山小屋」が「防御施設」か、避難所かについて論争が繰り広げられた。いわゆる「山小屋」論争と呼ばれるものである。「山小屋」論争は1980年代末まで続き、各研究者が様々な検討を行った。やや長くなるが、城の研究に関わることなので、各研究者の考察について整理していく。
小穴芳美氏は、「山小屋と言われる城の機能について、長野県南安曇郡の諸城を例にとって再検討」した。小穴氏は、現況遺構による考察を軸に検討を行い、その結果、南安曇郡に関する限り、「文献に出てくる山小屋は城山と同意味であったものと思われる。しかし、笹本氏の言われるような逃避のためのかくれ小屋は、ここでは若干の例示にとどまっているが、いわゆる山小屋と称される城の外にあったのではないかと思われる」と述べ、「山小屋」を城と同じ意味であるとする見解を出した18)。
また、市村高男氏も、文献史料に現れる「山小屋」を検討し、「山城より低位に位置付けられていた軍事的構築物」であると指摘した19)。
市村氏の論文もそうだが、1988年になると、「山小屋」及びその関連の注目すべき論文が発表される。その代表格と言えるのが、藤木久志氏の「村の隠物・預物」である。
藤木氏は、「村の自力」を解き明かすカギの一つとして、「村の隠物・預物の習俗」に焦点をあてた。その中の一つとして、「小屋籠り」「城籠り」があったことを指摘し、「山小屋」について、笹本氏のように避難所として消極的に見るのではなく、「村の自立の拠点=ポジとしてみるべきもの」とし、「村人が自らの生活と生産を真持つ『自立した村の山小屋』『百姓持タル城』として、より積極的に構想することができるなら、戦う中世の村の実像をとらえるうえで、まことに魅力ある仮説となるだろう」と述べた。また、「守護使不入の荘園の政所堀の内や、在地領主や大名の城までも、村人たちの避難所や預物の場となり、在地の寺社とよく似た役割を果たしていた」と指摘した20)。
藤木氏の論文で注目されるのは、藤木氏自身が、「これまで、全国の山あいに数多くある、ごく小さな中世の城跡をみるのに、ふつうは『誰の築いた城か、誰の居た城か』といって、あくまでも特定の土豪や領主とのつながりを想定するか、さもなくば著名な大名の築いた城郭ネットワークの一環とみなすかのいずれかで、特定の領主と結びつかず、文献にも所見のない城がなぜ多いのか、その意味がつきつめて考えられたことは、まだないように思う」と述べているように21)、村人などの被支配者層が、自分たちの城を持っていたことを指摘した点にあった。
この指摘は、「村の城」論として、現在も城の研究に大きな影響を与えている。
また、縄張り研究者の中でも、注目すべき成果が発表された。
横山勝栄氏は、「中世城郭とは何か、というテーマに対する諸説は中世の戦闘時に使用された防衛、守備用の設備であるとの認識で一致して」いると述べ、「それは第二次世界大戦前の城郭論にみられる把握のしかたをほとんど無反省に受け継いだものであった」と問題点を投げかけた。
その上で、新潟県北部の「小型山城」の現況遺構を調査し、交通の要衝にあるわけでもなく、集落に付随して設置されているものについて、「このような小規模山城の実態、それは集落に付随し、在地集落在住者によって構築され、維持、管理され、多くの場合、戦闘行為以外の集団で行動する機会に集合し、集会し、あるいは非難し逃避する場面で主として使用される施設としての性格をもった場としての側面にこそ存在を認めねばならない」と指摘した22)。
横山氏の指摘は、「在地集落在住者」によって構築、維持、管理された城があった点で藤木氏と同様であった。また、藤木氏よりも前にこの点を指摘している点も見逃してはならない。藤木氏も、先の論文の中で、「越後の山間に小型城郭を踏査している横山勝栄氏が、たんに軍事面からだけでなく、むしろ山野河海を占守・用益する日常的な拠点として、『村の城』を構想し検討を続けているのは、まことに新鮮で刺激的な試み、というべきであろう」と述べている23)。
この「山小屋」論争とそれに続く「村の城」論は、縄張り研究者に大きな影響を与えた。それは、1991年の第8回全国城郭研究者セミナーで「小規模城館」を、1995年の第12回セミナーで「村の城を考える」をテーマに掲げたことからもうかがえよう。縄張り研究者は、それまで在地領主の城か、あるいは大名の支城などとしてきた遺構について、文献史学や横山氏の指摘をもとに、再度検討する必要に迫られたのであった。
○戦国期の城の研究
「山小屋」論、「村の城」論とは別に、戦国大名の城について、文献史料に現れる用語をもとに、その構造を明らかにしようとする研究が進められた。
用語とその意味について、初めて本格的な検討を行ったのは、市村高男氏である。市村氏は、「城郭」「要害」や「根小屋」「小屋」「山小屋」、「寄居」「陣城」「宿城」「外張」「生城」などの用語について、関東地方の文献史料をもとに分析した24)。
村田修三氏の論文と、『日本城郭大系』と自治体による分布調査、「全国城郭研究者セミナー」の開催により、歴史学の一分野としての城研究の素地ができあがった。これらの業績は、特に縄張り研究者にとって大きな影響を与え、縄張り研究が進展する要因になった。
これをうけ、縄張り研究者は、以前から進めてきた方法論を深化させる道を選び、編年の構築や戦国大名独自の築城術を明らかにしようと模索していった。その結果、橋口氏らの批判を浴びる結果となり、縄張り研究の問題点が次々と明らかにされた。
突きつけられた問題点に対し、縄張り研究者として正面から取り組んだのは、千田嘉博氏であった。氏の研究成果は、橋口氏らの批判に答えるものであり、さらに、その後の縄張り研究を方向付けた。また、千田氏が焦点を当てた「織豊系城郭」は、主に考古学によって研究が進められ、1990年代以降、大きな成果をあげることとなる。
縄張り研究の他に大きな成果をあげたのは、文献史学である。井原今朝男氏らの「山小屋」論と、藤木久志氏の「村の城」論によって、それまで支配者の物とされた城に新たな視点を投げかけた。また、同時代史料の幅広い検討を行い、当時の人々の視線から城を分析しようとする研究方法が確立し、1990年代以降研究が進められていくこととなった。
1980年代の城の研究は、現在行われている縄張り研究・考古学・文献史学の各研究について、その方法論の基礎が形成された時期である、といえよう。
2.研究の多様化(1990年代)
1990年代になると、1980年代の成果を踏まえ、様々な視点から城の研究が行われた。
よって、これ以降については、①縄張り研究、②考古学、③文献史学の3つにわけ、それぞれ整理していくこととする。
1990年代の縄張り研究は、全国の城の縄張り図から、地域性及び縄張りと権力構造との関連性を見る研究と、戦国大名ごとの縄張りの特徴を見出す研究に分けられる。
○縄張りと権力構造の関連性
城の縄張り構造に地域性が見られることは、1987年に刊行された『図説中世城郭事典』で、村田修三氏が、東北地方や南九州の城に特徴があることを指摘していたが25)、千田嘉博氏は、それを発展させ、城と城下から全国各地の城の地域性を検討した。
千田氏は、「北海道=チャシ型城郭、東北‐関東=東国館屋敷型城郭、関東‐北九州=館型城郭+機能分化型山城、南九州=九州館屋敷型城郭、沖縄・南西諸島=グスク型城郭」の5つに分類した。また、各地域の城と社会背景に関連があることを示し、統一政権によって地域性が否定されていくことを述べた。
また、千田氏は、「守護大名城下町から戦国期城下町への変化」を追い、「16世紀初頭には守護大名城下町の中心部は、一辺が200mにおよぶ方形居館タイプの城郭を核に区画の堀や溝を備えた大小の矩形の館や屋敷が群集して並立的に構成されていた」が、「16世紀第2四半期にはそうしたあり方を脱却し、大名自身や家臣団の居住域を含みこんだ山城を核にした新たな戦国期城郭・戦国期城下が形成された」と述べ、それは「大名権力の構成の変化に裏打ちされていた」とした27)。
このような千田氏の一連の研究は、現況遺構の調査が、中世社会の考察に有効であることを説いた村田氏の研究を継承し、城の構造と社会の変化が密接にかかわることを示そうと試みたものであった。
○パーツ論の流行
だが、千田氏の論文以降、縄張りと権力構造の関連性について、さらに検討を進めた論文は、管見の限り見当たらない。縄張り調査や発掘調査事例の増加により、全体史よりもまず、地域史の中での城を解明する方向に向かったことが大きな要因であるが、千田氏の論文「織豊系城郭の構造」を評価し、それを発展させようとした縄張り研究者の意識も要因としてあげられる。
つまり、「織豊系城郭の構造」で示された方法論を戦国期の城にも応用し、遺構の共通点を探し、それを戦国大名独自の築城術とし、その発達を編年化することで、戦国大名論を述べようとしたのである。いわゆる「戦国大名系城郭論」「パーツ論」と呼ばれる研究である。
戦国大名に独自の築城術については、主に武田氏・北条氏を中心に検討が進められた。発表された論文は数多く、その成果をここで全て掲載できるほどの紙数と能力は私にない。代表的なもののみ挙げることとする。
まず、武田氏の城についてである。武田氏の城の中でまず注目されたのは、「丸馬出」であった。1984年、萩原三雄氏は、現況遺構の調査をもとに、「丸馬出」のある城を集成してその分布状況を示し、その形態からA~Dの4タイプに分類した28)。
千田氏の論文発表以後、「丸馬出」に関する研究は増加し、北垣聰一郎氏・池田誠氏らによって、編年がまとめられた29)。
「丸馬出」以外についても検討が加えられ、三島正之氏は、横堀と放射状竪堀を組み合わせた防御施設を有する山城を、「武田氏山城の典型的パターン」とした30)。また、八巻孝夫氏は、武田氏の築城技術について、放射状竪堀などの8つに分類した31)。
次に、北条氏の城についてである。北条氏についても、「馬出」が注目された。八巻孝夫氏は、北条氏の領内の城に残る馬出を図化し、比較検討を行った32)。さらに、政治史分析と現況遺構の調査から、北条氏照に関係する城を抽出し、その特色をⅢ期に分け、各時期の遺構の特徴を示した33)。
その他の戦国大名の築城術や地域における城の特徴についても数多く検討されているが34)、ここでは、縄張り研究者の代表格である松岡進氏のフィールドである伊達氏を取り上げることとする。
松岡氏は、「類型論」(筆者註:パーツ論と同義)は、「特定の類型だけをとりだして中世城館論を展開するのではなく、あくまでも豊かな全体としてそれを把握するための研究方法である」と述べ、陸奥国伊具郡の城跡について、現況遺構の調査から、「郡規模程度の領域を対象として城館跡を踏査し、類型論に基づいて検討することによって、城館群の個性的な様相の検出が可能になる。その座標としては、規模の大小と臨時性の強弱とを採用できる」「縄張りの発展がどの類型の城館に集中的に見られるかによって、築城技術自体がもった意義や築城主体である権力の特徴を把握できる可能性がある」「城館跡研究の進展は、当該期の社会と権力の実相に迫る一つの道筋を提供する」と指摘した35)。
さらに、この考察を基礎として、伊達氏の城の虎口の特徴とその変化を明らかにした36)。
○「織豊系城郭」の研究
発掘調査の進展により、データが集成されていくなかで、特に成果をあげたのが、「織豊系城郭」の研究である。
中井均氏は、礎石建物、瓦、石垣の出現と画期が、すべて「織豊系城郭」にあることを発掘調査事例から明らかにした。礎石建物・瓦・石垣は、客観的資料としていずれも考古学的に取り組みやすいこともあり、中井氏の指摘が「織豊系城郭」の研究進展の契機になった37)。
1992年には、「織豊期城郭研究会」が設立された。「織豊期城郭研究会」は、「増加しつつあった城郭の緊急調査や史跡整備に携わっていた地方公共団体の職員や研究者が互いに理解を深め、情報交換できる場」を提供することを目的とした。2002年にいったん休会するまで、全10回の研究集会と機関誌『織豊城郭』の刊行を行った。
その中で、加藤理文氏は、豊臣氏一門以外から出土する金箔瓦について、どの同笵関係から、金箔瓦の使用は、豊臣秀吉もしくは豊臣政権の命令、許認可が降りなければ使用できなかったと述べ、瓦に金箔が使用された種類と豊臣政権との関係の強さに関連性があることを指摘した38)。また、木戸雅寿氏は、桐紋・菊紋瓦の使用について検討し、豊臣秀吉は関白に任命されたことにより、権威の象徴として、城に桐紋・菊紋瓦を利用する許認可権を握っていたと述べた39)。
○戦国期以前、及び戦国期の城の研究
発掘調査の強みの1つは、遺構の年代及びその変遷を把握できる点にある。そのため、地表面観察に限定される縄張り研究では把握の難しい、戦国期や戦国期以前の城は、主に考古学によって研究が進められた。
山上雅弘氏は、西日本を対象に、15世紀後半から16世紀前半頃の城の様相を城の構成・平坦地の造成・建物の規模・使用期間についてまとめた40)。
柴田龍司氏は、房総半島・畿内・尾張・越後・北日本各地の中世村落や城館の再編成について発掘調査成果をもとに考察し、15世紀中葉頃を境に、居館と城とのあり方が大きく変化し、戦国期の城が出現したと指摘した41)。
中井均氏は、山城の成立過程について、発掘調査及び出土遺物から考察し、「15世紀末~16世紀初頭の山城は、城館というセット関係ではなく、山城が日常的な生活の場であった」と指摘し、「居館と詰城という分離形態が出現するのはむしろその後の段階といえるのではないだろうか」と述べた42)。
○戦国期以前の城の研究
1991年・1992年は、文献史料に基づく戦国期以前の城の研究が多数発表された年であった。ここでは、時代順に研究史を追っていくこととする。
まず、鎌倉期の城について。
鎌倉期の城については、市村高男氏が1987年に発表した論文「中世城郭論と都市についての覚書」の中で、合戦・紛争などの非日常的事態に際し立て籠もるために創出された特異な空間=「場」である、と述べたが、本格的な検討は行われなかった43)。
初めて本格的な検討を行ったのが川合康氏である。川合氏は、治承・寿永の乱における城について、「交通遮断施設」として構築されるのが一般的であったと述べた。これに対し、中澤克昭氏は、「城郭を『交通遮断施設』として『戦争』のなかに位置付けているが、それはいわば城郭の構築物としての一面を評価したにすぎない」として問題点を指摘し、鎌倉期の城の実像を多面的に読み解こうと試みた。その結果、城は、東北地方をのぞき、戦闘に際して臨時に構えられる非日常的・臨時的なものである点で、「館」や「屋形」及び中世後期以降の城と異なるものであること、この時期の城は、「交通遮断施設」だけでなく、きわめて多様な存在形態を示していたこと、中世後期以降の城に比べて簡素な遮断施設によって区画された空間であったが、この時代の「騎射戦」の戦闘形態に即した構造であったこと、を述べた44)。
また、伊藤一美氏は、鎌倉期の史料に現れる「城郭」の出現回数をグラフ化し、鎌倉時代後期に多く現れることから、「この言葉は鎌倉時代後期にその使用の一般化がある」と述べ、『吾妻鏡』に現れる「城郭」についても、「編纂された鎌倉時代後期のイメージが相当入っている」と指摘した45)。
次に、南北朝期の城について。
新井孝重氏は、悪党の拠点としての「城郭」に注目し、悪党の「城郭」の構築は、「敵対的な政治関係の軍事的継続状態を端的に表現するもの」と述べた46)。また、小林一岳氏は、「城郭」を当知行のシンボルとして注目し、支配しようとする特定の領域に「城郭」を構え、そこに自身がはいり武装集団を駐屯させる行為は、近隣に対する当知行の宣言であり、逆に「城郭」から紛争相手を放逐し、さらにその「城郭」を破却することは、相手の当知行否定を公示することになる、と述べた47)。中澤克昭氏は、先の論文で、南北朝時代の城は、武力の発動を象徴するものであったが、「交通遮断施設」や、「当知行のシンボル」という評価だけではくくることのできない多様さを持っていた、と述べた48)。
また、村田修三氏は、文献史料に現れる「構城郭」(城郭を構える)という語に焦点をあて、悪党の新儀・非法を並べ立てる一つの箇条として挙げられており、本来、「城郭」というものは勝手に築いてはいけないという観念のあらわれであり、内乱時に「城郭」を構えることは、国家権力にとって、公儀・公の立場からというとありえないことであった、と述べた49)。
最後に、中世前期から後期、及び戦国期への城の展開を述べたものについては、齋藤慎一氏と中澤克昭氏の論文がある。
齋藤氏は、14世紀から15世紀の本拠のあり方を分析し、戦国期への城の展開を見通すとともに、城を通じて領主の存在形態の変化を検討した。その結果、「南北朝期に臨時に『城郭』を構えるという段階を経て、15世紀中頃より自己の本拠に「要害」を持ち始める」、と指摘した。
また、「城郭」は、政治的な理由により、臨時に急遽築かれたもので、簡素ではあったが、「館」とは区別できるものであったとし、通常の居館を城郭化するものと、天険の用害によるものとの2通りがあったとする。そして、「要害」は、恒常的に維持する目的で築かれたもので、その背景として、「城郭」のような政治的な理由よりも、「自己所領の限定と在地化、および『家中』の創出など」といった、領主の存在形態の変化があったと述べた50)。
中澤氏は、中世から近世にかけての城に対する意識の展開について検討した。その結果、古代から続く「不穏なもので破却すべきもの」という「城」の意識に加え、南北朝期から「国のため」「国中静謐のため」の「城」という意識が芽生えた。そして、この2つの意識が戦国期において合流し、1615年の『武家諸法度』において、「『武』の空間であった『城』を国家が『公儀』のシンボルとして法制上確定したということにほかならず、まさに『兵営国家』の確立を象徴するものであった」と述べた51)。
○戦国期の城の研究
1980年代に引き続き、戦国期の城の研究も進められた。
市村高男氏は、文献史料に現れる「根小屋」「内宿」「外宿」「惣構」をキーワードに、戦国期の城と城下の宿・町について検討した。その結果、家臣の小屋や屋敷が建つ「根小屋」から、領主(城主)権力の発展、家臣団統制の進展に対応しつつ、「根小屋」の集落化=宿化現象が次第に進行し、「内宿」の成立をみることとなった、と述べた。また、「内宿」を「武家地」系の宿、「外宿」を町系の宿とし、「惣構」の形成は、軍事的緊張の高まりによる民衆の安全保障問題と深く結びついていたことを明らかにした52)。
佐脇敬一郎氏は、「寄居」に焦点を当て、関東地方を中心に、史料に見える寄居と、寄居地名の分布状況、分布地域の歴史的背景の関連性について検討した。その結果、「寄居」取り立て主体者の多くが、戦国大名の家臣や中小在地領主であったことを指摘し、「寄居」について「戦国大名が築き、運用する城とは、一段階下の普請体制で取り立てられ、境目等で大名が構築した城の補助的な役割を果たす軍事施設を指した文言」と推測した53)。
また、西日本においても、城に関連する用語の研究が行われた。
錦織勤氏は、中国地方の文献史料に現れる「固屋」について、市村高男氏の研究をもとに「小屋=固屋」と捉え、城攻めの際史料に現れる「固屋口」について、「麓の固屋(館・根小屋)に始まる城への登り口」のこととし、堀・土塁・塀があったと述べた54)。
1990年代の中世城研究は、1980年代に形成された方法論に基づき、縄張り研究・考古学・文献史学のそれぞれの分野で研究が進められ、深化していった点が特徴としてあげられる。
縄張り研究では、千田氏を中心に、縄張り図から地域性及び権力構造との関連を導こうする研究と、戦国大名ごとの縄張りの特徴を見出す、いわゆる「パーツ論」と呼ばれる研究が進められた。
特に、後者の研究を中心に進められ、現況遺構の調査をもとに特徴的な遺構を抽出・分類し、編年が作られていった。これにより、文献史料にも表れず、発掘調査の行われていない「城」(研究者が定義する「城」であって、中世の人々が指す城とは限らない)について、特徴的な遺構の有無によって、築城者や築城年代を推定しようと試みたのである。
考古学では、特に「織豊系城郭」の研究の進展がめざましい。出土遺物から統一政権の築城統制と支配方法を明らかにした一連の研究はその最たる例である。また、縄張り研究では把握が困難な、戦国期以前の城についても研究が進み、当該期の城の特徴と、戦国期の城への展開を明らかにしようと試みられた。特に、豊臣政権の築城統制は、同政権の支配方法の一端を示すものであり、城と統一政権との関連を示した点は、非常に大きな成果であったといえる。
また、発掘調査事例によって、戦国期以前の城から戦国期の城への展望や、中世から近世への城への展望を切り開こうと試みられるようになった。
最後に、文献史学では、1980年代に引き続き、同時代史料の幅広い検討を行い、現在の視点から城を見るのではなく、中世の人々の視点から城を見ようと試みる研究が進められた。戦国期以前の城については、「城郭」が論点となり、「城郭」の持つ言葉の意味と、当時の人々が何をもって「城郭」と称したかをもとに、当該期の城の実態に迫ろうとした。戦国期の城については、1980年代に引き続き、文献史料に見られる用語から、城の実態を明らかにしようと試みられた。
こうしてそれぞれの分野で成果をあげたものの、他分野間の連携は乏しかったため、各分野の研究成果をもとにした総合的な研究が必要になっていた。2000年代に入り、そうした研究が模索されていくが、そこで大きな転換点を迎える。いわゆる「杉山城問題」である。
3.総合的研究の模索と「杉山城問題」(2000年代)
○縄張り研究
1990年代に研究が進められた「戦国大名系城郭論」「パーツ論」であったが、2000年代に入り、その研究方法に疑問が投げかけられるようになった。
2001年10月に開催された「武田系城郭研究の最前線」で、萩原三雄氏は、「東国の戦国大名の城郭研究では「後北条系城郭」「上杉系城郭」「伊達系城郭」というように、各戦国大名に『系』を付した城郭研究が始まろうとしている。これらの戦国大名はいずれも、特色のある築城技術を展開していたのは確かであった。しかし、『系』で括れるほどの独自で普遍性をもった築城技術が成立していたのか、いまだ定かではない。おそらく今後、この「~系城郭」はさらに発展し、凡日本列島的に一人歩きしていくことになろうが、その成立に至るまでにはのりこえなければならない多くの研究課題がある」と述べ、「戦国大名系城郭論」の成立には課題があることを指摘した55)。
また、文献史学の側からも、「戦国大名系城郭論」「パーツ論」に対する批判が投げかけられた。齋藤慎一氏は、武田系城郭・後北条系城郭といった、「戦国大名系城館論」について、その概念については全面的な否定はしないものの、「現状において確認できたことは、地域における城館像と戦国大名による築城を手続きなしに結びつけた戦国大名系城郭論ではなかっただろうか」と述べ、「現状の戦国大名系城館論はまだ仮説の域を出ていない」と指摘した56)。
齋藤氏の批判に対し、松岡進氏は、「齋藤は同時代史料によって年代・築城主体が確定できる城館から議論を演繹的に展開する方法をとっており、その骨格をなすのは文献史学であるが、筆者を含む城館跡研究は、現存する城館跡遺構の踏査から出発し、次いでそれらの共時的・通時的関係を考察する帰納的方法に立脚する。齋藤の批判はこのような原理的相違を踏まえていない」と述べ、「方法的な違い」から反論しているが、一方で、「遺構研究と文献の所見の間に大きな乖離があるのが問題にされてこなかったこと、さらに前者が古典的な大名専制権力論を前提とする弱点を持っていたことは真摯に受け止め、克服を図らねばならないと考える」と述べ、批判を受け止めている57)。
私見になるが、松岡氏の「方法的な違い」からの反論は、齋藤氏への反批判にはなっていない。齋藤氏が後に、「初出以後、この拙論に対して具体的に反証を挙げ、批判を加えた研究を得ていない」と述べているように58)、齋藤氏が、戦国大名の城とはいえないとして例示した城について、戦国大名の城である、とする反証をあげなければ、齋藤氏の批判に応じたとはいえないからだ。批判に真正面から取り組み、反証をあげられなければ、今後いくら「戦国大名系城郭」関連の論文を書いたとしても、少なくとも歴史研究者からは見向きもされなくなるだろう。今後の縄張り研究に期待したい。
○考古学
考古学において最も特筆されるのは、出土陶磁器の数値化調査の進展である。
本格的な出土陶磁器の数値化調査は、小野正敏氏が、静岡県にある横地城総合調査の一環として、遠江国を主として遺跡出土の陶磁器組成を調査したのが最初である59)。小野氏は以前、遺跡ごとに3時期にわけて瀬戸美濃と中国陶磁について、その器種構成を数値化し、各時期の陶磁器組成の概要と問題点を検討した。すでに、房総における城について、2期(14世紀後半~15世紀前半)と3期(15世紀後半~16世紀)を比較し、特に3期において、陶磁器を大量に消費した城と、ほとんど残さない城があることを指摘し、城の機能に差が生じてきたことを推定しているが60)、今回は城以外の遺跡にも焦点をあて、比較検討を行っている。また、「当地方の中世遺跡は、その性格によって城館・それ以外の流通関係の集落・その他の村落等に大別でき、それらがどのようなネットワークで結ばれていたか、陶磁器の組成から検証しうる日は近いと思われる」と述べ、今後の研究の進展に期待を寄せた。
その後も調査は進み、2005年に開催されたシンポジウム「菊川城館遺跡群国指定記念シンポジウム」では、調査地域に駿河国・伊豆国・東三河が加えられ、広範囲の遺跡について、同じ基準で比較検討する環境が整えられた61)。
また、浅野晴樹氏は、北武蔵の主要城郭跡の土器・陶磁器の用途別の構成を明らかにし、遺跡の存続期間を中心に検討を加えた62)。
出土陶磁器の数値化調査の進展とともに進んだのが、発掘調査成果から、16世紀以前の城の特徴をさぐる研究である。
山上雅弘氏は、西日本で検出事例が増加している段状遺構について検討を行い、「段状遺構はごく一般的に山城に存在しており、この遺構を議論に加えることで、初めて16世紀前半以前の山城構造が論じられる」と指摘した63)。
簗瀬裕一氏は、下総地域にみられる台地上の集落について検討し、14世紀中葉と15世紀中葉に変化の画期があり、15世紀中葉から台地上に屋敷が塊状に集中する大規模な集落が登場し、笹本城跡や前畑遺跡・中馬場遺跡のように、「城郭化」される集落も現れた、と述べた64)。また、同地域の城館と集落の関係についてその変遷を追い、15世紀後半から確実に、台地上で城館が出現し、当該期の城館は、内部に集落や墓地を内包した「集落型城郭」であること、さらにそれが、「一揆の城ともいえる内部が均質性の高い城」と、「内部に明確な階層差が認められる城」とに分類される、とし、遅くとも16世紀中葉には、「家臣団層の居住域や商・職人層の居住域である町場を防御施設で囲い込んだ惣構構造の城館」が成立する、と述べた65)。
吉野健志氏は、安芸地域をフィールドとして、発掘調査をもとに検討を行い、15世紀初頭を定点とする城の構造の特徴を抽出した66)。
近年においては、中井均氏が、城の構造の発達について検討を行い、従来16世紀半ばから後半に出現すると考えられてきた防御施設について、発掘調査の結果、15世紀、古いものでは14世紀の山城ですでに導入され、16世紀中頃に、これらの防御施設が有機的に結合した、と述べた67)。
○文献史学
文献史学においては、戦国期の史料に出現する城関係の用語の検討が進められた。
松岡進氏は、「戸張」について検討し、「戦国期から近世初頭の関東で、都市や外郭が形成されていくようすを知るための貴重な手がかりといえる」と述べた68)。また、「寄居」については、「民衆を守備兵とするなど、境目の民衆の生活維持の要求と密接に結びついた「戦場の勧農」ともいうべき要素を含んでおり、そうした下からの動向を組み込むのが、多方面に戦線を展開しようとする大名には不可欠であったもの」であり、また、「専制的な支配を貫徹させるための恒常的な装置」ではなく「臨時性を本質としている」と指摘した69)。
さらに氏は、北条氏康の時期の領国を対象として、文献史料の検討から遺構研究の成果との関係を検証し、当該期の史料に所見される、「城(御城)」「要害」「地利」「新地」「小屋」「寄居」「屋敷」の城郭に関連する用語について、その概念を定義しようと試みた70)。
その他、齋藤慎一氏は、15世紀後半から16世紀初頭の城の構造について、同時期に出現する「実城」「中城」の用語と、発掘調査成果から検討し、同時期の城は、主郭を中心とする求心的な構造ではなく、「独立併存構造の集合体」が特徴ではないか、と指摘した71)。
福島克彦氏は、同時代史料に所見される「惣構」の用語の消長という点に着目し、「惣構」がどのような意味を含んでいたのか、また、それに合わせて、「本城」「本丸」「外城」「外構」などの関連用語の意味も考察した。その結果、15世紀後半から「本城」「外城」用語が所見され、領域内部における城郭の機能分化が定着したことを示すこと、豊臣権力段階になって、「惣構」表現が次第に一般化してくることなどを指摘した72)。
西日本においても、馬部隆弘氏が、史料に出現する「塀隔子」の復元を通し、その構築の目的とその運用を可能にさせる体制を検討した。そして、「大規模な役徴収に欠かせない賦課基準として、「塀隔子」が用いられていることは、両者が政策的に関連していることを明快に示していること」、「塀隔子」は、土塀である可能性は低く、視覚的な遮断を第一の目的に構築されたのではないか、と指摘した73)。
また、木村信幸氏は、「固屋」について検討し、錦織氏の述べたような「固屋=小屋」ではなく、東国の「小屋」とは性格の異なるものであり、立地的には「根小屋」に近いものである、と述べた74)。
杉山城は、埼玉県比企郡嵐山町にある遺跡である。この杉山城は、長らく縄張り研究者によって、天文・永禄年間(16世紀中期)に北条氏によって築城された城とされ、その高い完成度が高く評価されてきた75)。
しかし、平成14年度から同16年度にかけて行われた発掘調査において、以下のようなことが判明した。
- 杉山城跡は1時期であり、再利用・改修した痕跡が認められない。
- 出土遺物から、15世紀末から16世紀前半の山内上杉氏関連の城である。
- 出土遺物の構成や平坦面(曲輪)の造作の粗さから、臨時的な城であり、使用された期間は極めて短かったと推測される。
このように、発掘調査成果は、これまでの見解を覆すものであった。縄張り研究者の見解と発掘調査成果による見解のズレは、以前から存在したが、「城の改修は16世紀後半まで行われるが、その時期には城の使われ方が変わって、城で生活することがなくなったために、遺物は出土しない」、「遺物を消費する活動が行われていない」などと解釈されてきた。
しかしながら、杉山城の件は、発掘調査の結果、再利用・改修した痕跡が認められない点と、発掘調査が行われるまで、北条氏の築城の典型と評価されてきたことが、問題を大きくした。その結果、縄張り研究と城研究における(※決して考古学全般ではない。あくまで城の研究に限定される)考古学の方法論が、果たして正しいのかどうか、議論をする必要が生じたのである。
○「杉山城問題」の経過
【2005年 -縄張り研究と考古学の議論-】
杉山城の発掘調査成果を受け、2005年2月、シンポジウム「埼玉の戦国時代 検証比企の城」が開催された。杉山城の発掘調査成果だけでなく、北条氏による使用が確実な松山城においても、15世紀後半~16世紀中頃の出土遺物が中心であったこと、縄張り研究から、杉山城より古いとされてきた小倉城では、16世紀後半までの遺物が確認されたことなど、注目される成果が次々と報告された。
特に議論の対象となったのが杉山城で、縄張り研究者から、「杉山城の縄張から15世紀末という年代観は技術的には考えにくく、今回の調査の出土した遺物は量的にも少なく、前段階の遺物が混入したもので、遺物の出土しない城という存在を想定できるのではないか、そうでなければ杉山城跡の縄張が技術的に年代、周囲の城郭群、戦国期城郭群のなかで孤立し、技術的なつながりが見えない」との指摘を受けたという。それに対し、村上伸二氏は、遺物と遺構の同時性は確かであり、「16世紀中葉から後半の遺物が1点も検出されていないことは、調査成果の年代観を裏付けるものと考える」と述べた76)。
同年12月、シンポジウムの成果をもとに刊行された『戦国の城』では、縄張り研究者の西股総生氏と松岡進氏が論考を寄せた。西股氏は、発掘調査成果から、「居住性がごく限定された空間だっと考えることができる。」「特定の戦術上の目的に従って構築された純軍事的施設であることが、縄張から予想される杉山城のような城郭においては、空間利用の在り方が居館や集落とは明らかに異なる様相を見せている」と述べ、「遺物消費のあり方についても、居館や集落遺跡とは違った視角による分析が必要である」「限られた出土陶磁器の年代から城郭の構築・使用年代を判定するためには、まだまだ検証の手続きが不足していることを指摘せざるをえない」と指摘した77)。
松岡氏は、瀬戸美濃の大窯第1段階の終期の年代比定根拠がないこと、生産地から離れた消費地であることから、杉山城の年代に再考の余地があると指摘した78)。
杉山城の発掘調査成果について、縄張り研究者は、それを全面的に受け入れることはしなかった。西股氏と松岡氏の指摘は、生産年代と消費地のタイムラグの問題と、「城」という特殊な施設であることを考慮すべきであり、このことから、杉山城の年代は検討の余地がある、というものである。
両氏とも、従来の縄張り研究に問題点があったことを認めつつも、考古学の側にも問題がある、と指摘したのであった。
このように、杉山城問題は、当初、縄張り研究と考古学の研究者を中心に議論がされていたが、議論は平行線をたどり、長期化の様相を見せた。しかし、2007年、文献史学から注目すべき見解が提示され、杉山城問題は、新たな段階へ動いていく。
【2007・2008年 -文献史学よりの見解提示-】
杉山城に関連する文献史料は、それまで見出されなかったが、竹井英文氏・齋藤慎一氏によって、次の史料が杉山城に関連するものとして提示された。
椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙之至候、謹言、
、、、、九月五日、、、、、、、、、、、、、、、、、、、花押(足利高基)
、、、、、毛呂土佐守殿
「山田吉令筆記所収家譜覚書」『戦国遺文』古河公方編-606号
この史料をもとに、竹井氏・齋藤氏は、杉山城の年代について見解を提示した。各氏の見解は、以下の通りである。
- 「9月5日付毛呂土佐守宛足利高基書状写」に「椙山之陣」とある。この史料の年代は、当時の政治状況などから、永正9年(1512)から大永3年(1523)までの間のものと比定できる。
- 「椙山之陣」は、当時の政治状況などから、現在の埼玉県嵐山町にあったと考えられる。ただし、現況遺構は、複雑で技巧的なもので、簡易的な造りとされる「陣」とは差が大きく、特異なものとなってしまうため、「椙山之陣」が発掘調査された杉山城と同一とは考えにくい。
- 近代に作成された史料「佐竹家臣之系図」に、「杉山長尾」が見える。杉山長尾氏は、惣社長尾氏の一族で、当時の政治状況から、永正9年頃に山内上杉憲房に攻撃され滅ぼされたと考えられる。「杉山」は、埼玉県嵐山町の「杉山」を指すものと考えられ、杉山城を拠点とした長尾氏が当時存在していた。
- 以上の事から、「椙山之陣」は、杉山城を攻撃するために構築された「陣」で、具体的には越畑城などのことを指す。杉山城は、杉山長尾氏の「拠点的城郭」であって、永正9年に落城して以後廃城となり、短期間の使用にとどまった79)。
- 「9月5日付毛呂土佐守宛足利高基書状写」に「椙山之陣」とある。この史料の年代は、当時の政治状況などから、永正9年から大永4年の間と比定できる。
- 「椙山之陣」は、年代的及び地理的に考えて、埼玉県嵐山町に比定され、大永元年から同4年正月の間に、山内上杉憲房が構えた「陣」である可能性が非常に高い。この点が了解されるのであれば、「椙山之陣」こそ杉山城であると考えて良い。
- 杉山城を杉山長尾氏の拠点とする竹井氏の説は、発掘調査成果などから、杉山城の性格は、陣城であると考えられ、成り立ちえないと思われる80)。
竹井氏と齋藤氏の指摘は、「椙山之陣」の比定地に違いがあるが、同一の史料から、杉山城が16世紀前半の城であると指摘した点で共通している。また、発掘調査成果とも一致しており、発掘調査成果を文献史学が裏付ける形となった。
【2008年・2009年 -杉山城天正18年築城説と「戦国の城の年代観」シンポジウム-】
2008年10月18日・19日、帝京大学山梨文化財研究所において、シンポジウム「戦国の城の年代観 -縄張研究と考古学の方法論-」が開催された。
シンポジウムでは、峰岸純夫氏による記念講演と、縄張り研究と考古学の研究者計6名による報告が行われ、縄張り研究者、考古学それぞれの立場から、城の年代観について議論が行われた。以下、報告の内容について「杉山城問題」に関連するものを、シンポジウムをまとめた本『戦国時代の城』から整理していく。
考古学の立場から意見を述べたのは、西股総生氏、松岡進氏、中井均氏の3氏である。3氏の意見を整理すると、以下のようになる。
- 西股氏
出土遺物の年代をそのまま築城年代に読み替えることが「実証的」と言えるか疑問。山中城や新府城、高天神城でも古い時期の遺物ばかり出土している。出土遺物の年代からストレートに城の年代を確定することは、一乗谷遺跡など、日常的な生活を伴う拠点的な城においては有効であろうが、「純粋戦闘空間」として構築された城においては難しいと考える。
ただし、城を縄張りで編年することは疑いを持つが、縄張り研究の方法論は、「城郭という遺構をめぐる人の営みの諸相」を見る上で必要だ。「城郭という遺構をめぐる人の営みの諸相」の第一義的には軍事である。城を通して軍事を考える方法論(つまり縄張り研究)は、もっと積極的に模索されてよい81)。 - 松岡氏
それまで、縄張りの細部の検討によって、「無名の城が、大きな空間のサイズを示しているという意外な事実の摘出」を行ったが、そこには無意識な飛躍があり、「杉山城問題」により、その点を鋭く指摘された。
だが、城の築城主体や年代の推定は、縄張り研究の到達目標ではない。中世の城とは、「固有の一次的空間(城の縄張り)を形成し、地域社会の主体的な意思を含む多元的な二次的空間=空間複合を生み出す軍事施設である。その様相を読みとるために必要なのは、単体の城郭の縄張・規模の精細な把握とともに、軍事史的な「地理的コンテクスト」、すなわち比高(自然環境)・立地(人文環境)の認識である」82)。 - 中井氏
16世紀後半の発達した縄張りであるとした遺構論(縄張り研究)と、出土した遺物はすべて15世紀後半から16世紀初頭に収まるものであるとした遺物論(考古学)は、どちらも正しいという認識から再検討すべき。縄張りより考えられていた年代よりも古い遺物が出土したからといって、遺構の年代を遡らせることはできない。
杉山城の遺構は、とても15世紀後半から16世紀初頭に出現するものではなく、仮に出現したとしても、同時期に機能したとされる上戸陣や五十子陣との整合性が成り立たない。
改めて杉山城の縄張りを分析してみると、北条氏の築城よりもさらに新しい構造であると考えられる。また、天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦において、柴田勝家の本陣となった玄蕃尾(げんばお)城と遺構が類似している。このことから、杉山城は「織豊系城郭」であり、天正18年の小田原合戦時に、前田利家によって構築されたものである83)。
西股氏、松岡氏は、中世城研究において、縄張り研究が必要であることを主張した。一方、中井氏は、16世紀中期の北条氏築城説と、16世紀前半の山内上杉氏築城説に加え、16世紀最末期の前田氏築城説という新説を主張した。これにより、杉山城の年代について、3つの説が並ぶこととなった。
考古学の立場から意見を述べたのは、藤澤良祐氏、森島康雄氏、鈴木正貴氏の3氏である。3氏の意見を整理すると、以下のようになる。
- 藤澤氏
生産地と消費地とのタイムラグについて、生産の在り方によるタイムラグはほとんど存在せず、考古学的時間としては同時に起こったと捉えた方がよい。生産年代と消費地におけるタイムラグの問題は、使用から廃棄までのタイムラグが原因であったと考えられる。ただし、近年、地域により大窯製品の時期別の出土状況が大きく異なっていることから、「大窯製品の消費の実態を解明するにあたっては、その地域における大窯製品の流通状況を十分把握した上で検討を加える必要」が出ている84)。 - 森島氏
最も重要なことは、在地土器編年の整備である。また、城の縄張りについても、土器と同じように、型式組列を組み立てていくという方向性での研究が必要であろう85)。 - 鈴木氏
消費地遺跡で遺跡や遺構の年代を瀬戸美濃窯産陶器で考察する際に注意しなければならないのは、遺跡や遺構の年代をそこから比較的多く出土した遺物から判断すると、年代観のズレが生じる可能性がある。一定のサンプル数が必要86)。
藤澤氏は、瀬戸美濃大窯編年が、消費地においても有効であることを改めて述べた。森島氏は、年代観の決定に在地土器の編年が重要であることを示し、鈴木氏は、遺跡・遺構の年代決定の方法に注意すべき点があると述べた。
私見になるが、3氏とも、直接「杉山城問題」についてコメントしていない。しかし、3氏の論文を読むと、遺物の型式論を論の軸に据えることで、考古学において型式論が最も基礎的な手法であり、城の年代決定においても必要不可欠であること、さらに、その手法を縄張り研究にも求めているように思える。
【2009年~2011年 -杉山城築城説の論争の展開と、天正後期北条氏築城説-】
2009年、文献史学による杉山城16世紀前半の山内上杉氏築城説に対し、縄張り研究者の松岡進氏が批判を投げかけた。
まず、竹井氏の見解に対しては、
- 杉山城の縄張りについて。15世紀後半から16世紀初頭と推定するには格差が大きすぎる。
- 機能について。発掘調査成果によれば、臨時的な城とされているが、それを「短期間」という言葉で置き換え、杉山長尾氏の「拠点的城郭」としたのは、「微妙な含意の飛躍がある」
- 「陣」の解釈について。「椙山之陣」の文言によって、杉山城とは別であったと確実に導き出せるか。「陣」は、目の前の城を攻めるためよりは、広域的な策源地の性格をもつ方が一般的。「陣」があって戦闘の場だったから「城」もあったということはできない。
次に、齋藤氏の見解に対しては、
- 杉山城を山内上杉氏の陣とした点について。「椙山之陣」と杉山城を同一と見なしうる遺構論上の根拠があげられていない。同時代の陣と杉山城とは同一の範疇に属するものとは思えない。
- 関連史料の読解について。齋藤氏は、「石川忠総留書」の内容の中で、「羽尾峯」で山内上杉氏と扇谷上杉氏が和睦したとの記述に着目し、「羽尾峯」は、杉山と松山の中間にある。このことから、扇谷上杉氏の本拠松山城に対抗する目的で、山内上杉氏が杉山に陣を築き、憲房自身がそこに陣した可能性が生まれる、としている。
しかし、「太田備中入道永厳出仕、於羽尾峯対面憲房」は、扇谷上杉氏側の太田氏が、「羽尾峯」に出向いて憲房と対面した、と読め、憲房の陣は羽尾にあったとする方が自然である。 - 杉山城のようなプランを山内上杉氏が実現できたとする論拠をあげていない。杉山城と、他の15世紀後半から16世紀初頭とされる城とは段階差があると考える。
として、両者の見解を批判した。また、共通する問題点として、「文献史料の解釈に立脚して杉山城を年代的に位置づける作業に遺構論が従属しており、想定された「拠点的城郭」あるいは「陣」という機能を、改めて遺構論の次元で掘り下げて検証するプロセスが欠落している」と指摘した87)。
文献史学の側からは、現在の所、松岡氏の批判に対し、反批判は行っていないものの、竹井英文氏が、縄張り研究による編年論について、研究史を整理した上で課題点をあげている。
竹井氏は、縄張り研究による編年論の最大の問題点が、論拠が不明確であることと指摘し、「文献史料や考古学の成果などによって、確実に年代が比定できる事例を収集し、それを軸に議論を組み立てていくことが、一番無難である」と述べた。
また、「杉山城問題」について、この問題で、西股総生・松岡進両氏が縄張りだけで編年不可能であること認めたことは、「パーツ論による縄張編年の破産宣告」であるとし、1960年代以降の縄張り編年論に一つの区切りがついたとし、「年代比定や築城主体の特定にはこだわらず、いかなる戦略空間の中で多様な城館が軍事的に機能していたのかを明らかにするもの、という方向性が示されたことも大きな変化といえよう。こうして、縄張研究は新たな段階を迎えたのである」と述べた。
さらに、中井氏の杉山城織豊系城郭説について、
- 技巧的なパーツが施され、純粋に縄張りから見ると戦国後期と見れる田辺城について、発掘調査成果からそのまま16世紀前半以前と比定しているにも関わらず、杉山城では発掘調査成果に疑問を投げかけ、縄張りにこだわって16世紀後半以降と比定している。
- 縄張り研究では編年は不可能と縄張り研究者自身が認めたにも関わらず、なぜ杉山城は織豊系城郭であると判断できるのか。また、縄張りにより年代比定を行っているが、その論拠が玄蕃尾城と類似しているからでは弱い。玄蕃尾城の縄張りが、天正11年の柴田勝家の本陣のものであるという論拠がないからである。
と批判した88)
城研究における考古学の方法論については、城館史料学会シンポジウムにおける山上雅弘氏の発言が注目される。
山上氏は、「京都系の土師器とか、いくつか目盛になる土器があるわけですけれども、京都系の土師器で言えば京都では編年がうまく行くかもしれないけれども、地方へ行ったときにそれがうまく使えるのか、使えないのか。使えるものと使えないものがあると思いますし、年代幅が10年で物が言えるものと、半世紀ぐらいの幅でみておかなければならないものとか、いろいろ問題がある。極端なところでは、土器編年が進んでいないとか、単純に備前焼とか貿易陶磁器のみで共伴関係をみたために時代が狂ってしまっているものもある。それが本当にうまく行っているかどうなのかというのは、そろそろ検証すべき時期に来ていると思います」と述べ、年代比定の再検証の必要性を唱えた。
また、「消費地の遺跡に関する議論が少なすぎる」と指摘し、「城館についての消費動向とか物の使われ方、伝世のあり方と、市場とか経済都市が全く同じなのか違うのか。一般集落と城館は全く一緒の消費動向を示すのか示さないのか。そういったことについて考古学の側ももう少し議論すべき時期にきている」と課題点を挙げた89)。
このように、杉山城の築城時期に関する批判と、それに伴う城研究の各方法論への問題提起が投げかけられる中、2011年、杉山城の築城時期について新たな見解が出された。中西義昌氏による天正後期北条氏築城説である。
中西氏は、杉山城について、「根拠とされる瀬戸美濃製品については、武田勝頼が天正9年(1581)に築城した新府城跡にも杉山城と同形式のものが出土しており、こちらを参考にするならば天正中・後期の遺構として縄張りからみた年代観と何の齟齬もなくなる」と述べ、出土遺物からの年代比定が杉山城山内上杉氏築城説の論拠とはなりえないことを指摘した。また、城の遺構の年代観と遺物のそれとのズレについても言及し、「第三者的な目線から一方の成果を挙げて一方の側に根拠を示せと迫る二項対立的な議論は望ましくない。むしろ、双方の年代観を比較する視点から、実際に運ばれてきた陶磁器等について、生産地から消費地への流通や現場での使用のされ方、遺物の出土状況から城郭施設の持つ特有の性格を読み込み検証される素材として杉山城跡が取り上げられるべきと考えられる」と、現在の議論の問題点と今後の取り組み方について見解を述べた90)。
さらに、杉山城の築城時期については、縄張りから「一見複雑な縄張にみえるものの、実際は本丸を起点に角馬出しや馬出し曲輪を重ねるパターンをくり返した結果と評価できる」と述べ、「このような階層的な曲輪配置から、杉山城の築城主体となる勢力が城主を頂点とする組織的な軍団であったと考えられる。このような軍団編成は、豊臣秀吉の関東征伐に対して関東一円から大規模な動員を行い組織的な抗戦を実践した後北条氏権力と重なる。杉山城は、最終段階の後北条氏系城郭の到達点を今日に伝える」ものだと指摘した。また、文献史料の解釈については、「『椙山之陣』は当地での戦闘と解釈するのが一般的であり、扇谷上杉氏時代に現存の杉山城跡を結びつけるには無理がある。遺物編年による年代観を頼みとする解釈にすぎない」と批判した91)。
中西氏の天正後期北条氏築城説により、杉山城の築城時期について、4つの説が提示される状態となった。「杉山城問題」は、解決の糸口を見出すことができぬまま、泥沼化の様相を呈してきている。
4.まとめ
以上、1980年から現在までの中世城研究の歴史を整理した。最後に、現在の中世城研究の問題点と今後について、私自身の意見を述べることにする。
縄張り研究の最大の問題点は、城跡の現況遺構を図化(縄張り図)し、それを軸に述べたとしても、仮説の域を出ないことにある。文献史学・考古学の両分野から、遺構論の論拠を度々求められているのは、こうした背景による。西股総生氏は、縄張り研究による編年は不可能であると述べたが、松岡進氏は遺構論の論拠がないとして竹井・齋藤両氏の見解を批判し、杉山城織豊系城郭説を提唱した中井均氏、天正後期北条氏築城説を提唱した中西義昌氏は、遺構論を軸に説を唱えている。ことことから、少なくとも3氏は、縄張りに研究による編年が不可能とは思っていないことが明らかである。
しかし、「杉山城問題」は、発掘調査成果と文献史学の史料提示により、縄張り研究の信頼性が大きく揺らいだことに端を発する。それを横に置いておいて、他分野の成果を批判し、自らの見解を提示したとしても、他分野の研究者の納得は得られない。遺構論を軸にするならば、遺構論を軸として年代比定を行うことが可能である、とする論拠を示す必要がある。それは、1980年代の村田・橋口論争以来ずっと言われてきたことだ。それができないのであれば、竹井氏が述べるように、文献史料や考古学の成果などから確実に年代が比定できる事例を収集し、それを編年基準の軸として議論していくのが無難である。その上で、改めて杉山城の問題に取り組むべきではないだろうか。
中世城研究における考古学の最大の問題点は、新府城のように、16世紀後半に築城されたのが明らかであるにも関わらず、発掘をすると15世紀後半から16世紀前半の遺物が主体である、この点をどう説明することができるか、である。
こうした事例は、シンポジウム討論などにより次々と明らかにされており、全国的な問題であることが強く認識される結果となった。
西股総生氏が述べた通り、出土遺物の年代からストレートに城の年代を確定することは、軍事拠点として機能した城において有効であるかは再検討の余地があるし、山上雅弘氏が述べるとおり、城館についての消費動向とか物の使われ方、伝世のあり方と、市場とか経済都市が全く同じなのか違うのかを検討する必要があると考える。これらの課題に一定の解答が得られるまでは、少なくとも軍事拠点として機能した城について、遺物の年代からストレートに城の年代に結びつけることは難しいと考える。
中世城研究における文献史学の最大の問題点は、城関係の史料の集成・検討と、城関連の用語検討による中世の城の実態把握である。中世の城は、文献史料に登場した以外の時期にも使用された可能性が考えられることから、文献史学にとって、城の年代を推定することは苦手分野であるといえる。
だが、当時の人々が記した文字資料を読み解くことによって、当時の人々が城をどう捉えていたか、そもそもなにを基準に「城」としていたのか、城でどのような生活をしていたのかを、当時の人々の視点から考察することができる。これは文献史学の大きな長所である。例えば、今回の「杉山城問題」においては、まず「陣」という用語について検討する余地があるし、遺構と遺物の年代のズレについても、史料を紹介することで、解決に向けた材料を提供することができよう92)。
以上、現在の中世城研究の問題点と今後について、縄張り・考古・文献史学ともに、それぞれ解決すべき問題があることを指摘した。「杉山城問題」は、縄張り・考古・文献史学のすべての分野が結集し、議論する場を与えただけでなく、現在の問題点と今後の解決点を提示した点で、研究史上重要な転換点であるといえよう。
杉山城の築城時期を考察するのは、まだまだ解決すべき点が多く、時期尚早である。今回の議論をもとに、まずは各分野それぞれの課題を解決すべく、それぞれの研究を進展させる必要があるだろう。そして、一定の成果が出た上で、再び議論の場を設け、「杉山城問題」の解決に至ることができればよいのではなかろうか。
記述終了日:2011年7月17日
フォーム改定、文章校正し再掲載日:2021年8月31日
註
1)↑小室栄一『中世城郭の研究』(人物往来社、1965年)、山崎一「群馬県古城塁址の研究』上・下巻(群馬県文化事業振興会、1972年)
2)↑村田修三「縄張り把握と発掘、協力へ-城郭研究の現状-」(『読売新聞』夕刊、1985年8月16日)
3)↑橋口定志「考古学から見た居館」(『第2回全国城郭研究者セミナーレジュメ』、1985年)
4)↑橋口定志「1985年の動向(中・近世)」(『考古学ジャーナル』263、1986年)、
5)↑村田修三「城の発達」(同氏編『図説中世城郭事典』新人物往来社、1987年)、同「戦国時代の城郭」(『歴史公論』115、1985年)
6)↑村田修三「城郭概念再構成の試み-チャシ・グスクを素材にして-」(同氏編『中世城郭研究論集』新人物往来社、1990年)
7)↑橋口定志「戦国期城館研究の問題点」(『季刊考古学』26、1989年)
8)↑市村高男「戦国期城郭の形態と役割をめぐって」(峰岸純夫編『争点日本の歴史』4、1991年、283頁)、齋藤慎一「本拠論・領域論の視点」(同著『中世東国の領域と城館』序章、吉川弘文館、2002年、13頁)
9)↑松岡進「城館跡研究の方法と課題」(同著『戦国期城館群の景観』序章第2節、校倉書房、2002年、20・21頁)
10)↑千田嘉博「織豊系城郭の構造」(『史林』70-2、1987年。のち同著『織豊系城郭の形成』Ⅱ-3、改稿)
12)↑井原今朝男「山城と山小屋の階級的性格」(『長野』110、1983年。のち『中世のいくさ・祭り・外国との交わり』第1部第1章、1999年再録)
16)↑註8市村論文、288頁。中澤克昭「城郭観の展開」(同著『中世の武力と城郭』吉川弘文館、1999年、234頁)。
17)↑笹本正治「戦国時代の山小屋」(『信濃』36-7、1984年)
18)↑小穴芳実「山小屋は逃避小屋か」(『信濃』36-10、1984年)
19)↑市村高男「「中世史料に見える城郭用語」(『龍ヶ崎の中世城郭跡』第1章第3節、龍ヶ崎市史別編Ⅱ、1987年)
20)↑藤木久志「村の隠物・預物」(『ことばの文化史』中世1、平凡社、1988年。のち『村と領主の戦国世界』東大出版会、1997年加筆再録)。
22)↑横山勝栄「新潟北部の小型城郭について-中世城郭研究基礎資料」(『三川村立三川中学校研究紀要』、1988年)
25)↑村田修三編『図説中世城郭事典』(新人物往来社、1987年)
26)↑千田嘉博「戦国期城郭・城下町の構造と地域性」(『ヒストリア』129、1990年。のち同著『織豊系城郭の形成』東京大学出版会、2000年改稿)
27)↑千田嘉博「守護所から戦国期拠点城郭へ」(奈良大学文化財論集刊行会『文化財論集』1994年。のち同著『織豊系城郭の形成』東京大学出版会、2000年再録)
28)↑萩原三雄「丸馬出の研究」(地方史研究協議会編『甲府盆地-その歴史と地域性-』雄山閣、1984年)。
29)↑北垣聰一郎「戦国期の城郭遺構とその変遷-「馬出し」を中心として-」(『横田健一先生古希記念文化史論叢』下、創元社、1987年)、池田誠「武田氏築城術の一考察」(中世城郭研究会『中世城郭研究』1、1987年)。
30)↑三島正之「小笠原領域の山城と武田氏」(中世城郭研究会『中世城郭研究』2、1988年)。
31)↑八巻孝夫「甲斐武田氏の築城術」(萩原三雄編『定本山梨県の城』郷土出版社、1991年)。
32)↑八巻孝夫「後北条氏領国内の馬出」(中世城郭研究会『中世城郭研究』4、1990年)。
33)↑八巻孝夫「北条氏照の城郭-後北条氏の城郭における氏照系城郭試論-」(中世城郭研究会『中世城郭研究』7、1993年)。
34)↑例えば、多田暢久「城郭分布と在地構造」(村田修三編『中世城郭研究論集』新人物往来社、1990年)、宮本誠二「中世城館遺構から見た淡路の権力構造」(『淡路洲本城』城郭談話会、1995年)など。
35)↑松岡進「城館跡類型論の試み」(『六軒丁中世史研究』4、1996年。のち同著『戦国期城館群の景観』第1部第2章、校倉書房、2002年改稿)
36)↑松岡進「伊達氏系城館論序説」(中世城郭研究会『中世城郭研究』12、1998年。のち同著『戦国期城館群の景観』第2部第4章、校倉書房、2002年改稿)
37)↑中井均「織豊系城郭の画期 -礎石建物・瓦・石垣の出現-」(村田修三編『中世城郭研究論集』新人物往来社、1990年)。
38)↑加藤理文「金箔瓦使用城郭から見た信長・秀吉の城郭政策」(『織豊城郭』2、1995年)。
39)↑木戸雅寿「織豊期城郭にみられる桐紋瓦・菊紋瓦について」(『織豊城郭』2、1995年)。
40)↑山上雅弘「戦国時代の山城-西日本を中心とする15世紀後半~16世紀前半の山城について-」(村田修三編『中世城郭研究論集』新人物往来社、1991年)。
41)↑柴田龍司「中世城館の画期-館と城から館城へ-」(石井進・萩原三雄編『中世の城と考古学』新人物往来社、1991年)。
42)↑中井均「居館と詰城-発掘成果から見た山城の成立過程-」(『帝京大学山梨文化財研究所研究報告』9、1999年)。
43)↑市村高男「中世城郭論と都市についての覚書」(『歴史手帖』15-4、1987年)。
44)↑川合康「治承・寿永の『戦争』と鎌倉幕府」(『日本史研究』344、1991年)。のち同著『源平合戦の虚像を剥ぐ』講談社、1996年再録。
45)↑伊藤一美「鎌倉期における『城郭』と武装」(『城郭史研究』15、1999年)。
46)↑新井孝重「南北朝内乱の評価をめぐって」(峰岸純夫編『争点日本の歴史』第6巻土木、日本評論社、1984年)。
47)↑小林一岳「鎌倉~南北朝期の領主『一揆』」(『歴史学研究』638、1992年。のち『日本中世の一揆と戦争』校倉書房、2001年再録)。
48)↑中澤克昭「空間としての城郭とその構造」(同著『中世の武力と城郭』第1章、吉川弘文館、1999年。初出「空間としての『城郭』とその展開」(佐藤信・五味文彦編『城と館を掘る・読む』山川出版社、1994年)及び「中世城郭史試論-その心性を探る-」第1章(『史学雑誌』102-11、1993年)。
49)↑村田修三「史料としての城館」(『中世史料論の現在と課題』名著出版、1995年)。
50)↑齋藤慎一「本拠の展開 -14・15世紀の居館と『城郭』・『要害』-」(石井進・萩原三雄編『中世の城と考古学』新人物往来社、1991年。のち齋藤著『中世東国の領域と城館』吉川弘文館、2002年再録)。
51)↑中澤克昭「城郭観の展開」(同著『中世の武力と城郭』第2部第3章、吉川弘文館、1999年)。
52)↑市村高男「中世東国における宿の風景」(『中世の風景を読む』2、1994年)。
53)↑佐脇敬一郎「寄居考」(『信濃』49-10、1997年)。
54)↑錦織勤「中世のおける山城築城技術の進歩について」(『鳥取大学教育学部研究報告(人文・社会科学)』46-1、1995年)。
55)↑萩原三雄「武田系城郭研究の現状と課題」(山梨県考古学協会編『武田系城郭研究の最前線』2001)。
56)↑齋藤慎一「戦国大名系城館論覚書」(萩原三雄・小野正敏編『戦国時代の考古学』高志書院、2003年。のち齋藤著『中世東国の道と城館』第8章、東京大学出版会、2010年再録)。
57)↑松岡進「氏康期の北条領国における城館と戦争」(藤木久志・黒田基樹編『定本 北条氏康』高志書院、2004年)。
58)↑齋藤慎一「戦国大名北条家と城館」(浅野晴樹・齋藤慎一編『中世東国の世界3 戦国大名北条氏』高志書院、2008年。のち齋藤著『中世東国の道と城館』第9章、東京大学出版会、2010年再録)。
59)↑小野正敏「遠江の出土陶磁器組成の特徴-貿易陶磁を中心に-」(『横地城跡総合調査報告書 資料編』菊川町教育委員会、2000年)。
60)↑小野正敏「出土陶磁よりみた房総の城館」(千葉県教委編『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書』2、1996年。
61)↑菊川シンポジウム実行委員会編『陶磁器から見る静岡県の中世社会』2005年。
62)↑浅野晴樹「戦国期城館の年代観」埼玉県立歴史資料館編『戦国の城』高志書院、2005年。
63)↑山上雅弘「戦国時代前半の中世城郭の構造と変遷」(村田修三氏編『新視点中世城郭研究論集』新人物往来社、2002年)。
64)↑簗瀬裕一「房総の中世集落」(浅野晴樹・齋藤慎一編『中世東国の世界2南関東』高志書院、2004年)。
65)↑簗瀬裕一「考古学からみた中世房総の城館と村・町」(千葉城郭研究会編『城郭と中世の東国』高志書院、2005年)。
66)↑吉野健志「中世城郭編年のための一作業」(『考古論集 -河瀬正利先生退官記念論集-』河瀬正利先生退官記念事業会、2004年)。
67)↑中井均「検出遺構よりみた城郭構造の年代観」(峰岸純夫・萩原三雄編『戦国時代の城』高志書院、2009年)。
68)↑松岡進「『戸張』-戦国期関東の虎口と外郭」(『天下統一と城』展示図録、2000年。のち松岡著『戦国期城館群の景観』第2部第6章、校倉書房、2002年改稿)。
69)↑松岡進「領域の防衛と寄居」(同著『戦国期城館群の景観』第1部第1章、校倉書房、2002年)。
70)↑松岡進「氏康期の北条領国における城館と戦争」(藤木久志・黒田基樹編『定本 北条氏康』高志書院、2004年)。
71)↑齋藤慎一「初期金山城の構造」(『史跡金山城跡環境整備報告書 整備編-史跡金山城跡環境整備事業(ふるさと歴史の広場事業)』太田市教育委員会、2002年。のち齋藤著『中世東国の道と城館』第Ⅱ部第7章、東京大学出版会、2010年再録)。
72)↑福島克彦「戦国織豊期における『惣構』の成立と展開」(黒田慶一編『韓国の倭城と壬辰倭乱』岩田書院、2004年)。
73)↑馬部隆弘「戦国期毛利領国における『塀隔子』の構造と役割」(『中世城郭研究』17、2003年)。
74)↑木村信幸「『固屋』-その史料と城郭遺構-」(『考古論集 -河瀬正利先生退官記念論集-』河瀬正利先生退官記念事業会、2004年)。
75)↑伊禮正雄「一つの謎杉山城址考」(『埼玉史談』16-3、1969年)。近年では、梅沢太久夫『中世北武蔵の城』岩田書院、2003年など。
76)↑村上伸二「杉山城跡」(埼玉県立歴史資料館編『戦国の城』高志書院、2005年、121頁)。
77)↑西股総生「比企地方における城郭の個性」埼玉県立歴史資料館編『戦国の城』高志書院、2005年)。
78)↑松岡進「『杉山城問題』によせて」(埼玉県立歴史資料館編『戦国の城』高志書院、2005年)。
79)↑竹井英文「戦国前期東国の戦争と城郭 -『杉山城問題』に寄せて」(『千葉史学』51、2007年)
81)↑西股総生「縄張研究における遺構認識と年代観」(峰岸純夫・萩原三雄編『戦国時代の城』高志書院、2009年)。
82)↑松岡進「軍事施設としての中世城郭」(峰岸純夫・萩原三雄編『戦国時代の城』高志書院、2009年)。
83)↑中井均「検出遺構よりみた城郭構造の年代観」(峰岸純夫・萩原三雄編『戦国時代の城』高志書院、2009年)。
84)↑藤澤良祐「瀬戸・美濃大窯編年と城の年代観」(峰岸純夫・萩原三雄編『戦国時代の城』高志書院、2009年)。
85)↑森島康雄「土器・陶磁器編年と城の年代観」(峰岸純夫・萩原三雄編『戦国時代の城』高志書院、2009年)。
86)↑鈴木正貴「遺物の組成と城の年代観 -尾張地域の消費地遺跡の視点から-」(峰岸純夫・萩原三雄編『戦国時代の城』高志書院、2009年)。
87)↑松岡進「『杉山城問題』追考 -竹井英文・齋藤慎一氏の近業によせて-」(『城館史料学』7、2009年)。
88)↑竹井英文「縄張編年論に関する提言 -その研究史整理と課題-」(『城郭史研究』29、2009年)。
89)↑「シンポジウム討論」(『城館史料学』7、2009年)。
90)↑中西義昌「中・近世城郭の構造分析と城郭跡の保存・整備」(『日本歴史』752、2011年)。
91)↑中西義昌「杉山城」(『歴史読本』2011年5月号)。
92)↑例えば、以下の史料は、城における消費について考える材料となるのではなかろうか。 、、、、、、条目(竜朱印影) 「秋田藩家蔵文書」『戦国遺文』武田氏編-2556号 、、、、、、書出 「青梅市郷土博物館所蔵並木文書」『戦国遺文』後北条氏編-2219号
一来歳者無二至尾・濃・三・遠之間、動干戈、可遂当家興亡之一戦之条、累年之忠節此時候間、或近年令隠遁之輩、或不知行故令蟄居族
、之内、武勇之輩撰出之、分量之外催人数有出陣、可被抽忠節戦功儀、年内無油断支度肝要之事
(中略)
一今後於陣中、貴賤共振舞一切可停止之、然則定器之外、椀・折敷以下無用之荷物帯来禁法之事
、、、、、、已上
、、天正三年乙亥
、、、、十二月十六日
一小山番従先番卅日番ニ定置候、然ニ八王子番故延来候、五日之内立可遣候、重而明日可立、今日可及触候、急ニ可令支度事
一往復不自由候間、卅日之支度、一度ニ持□[参]可行事
一三月下旬ハ以書出如被仰出、上方衆可打合候間、薄漆令持参、番中可令支度事
、、、、、、以上
右三ヶ条、存其旨、早々令支度、必五日内可被相着候条、重而一左右次第、御指図之地へ可相集旨、被仰出者也、仍如件
、、、、巳(朱印・印文未詳)
、、、、二月九日
、、、、、、、並木殿
1つ目の史料は、天正3年12月16日付武田家朱印状写である。来年の大規模な軍事行動の表明と、それに関する取り決めを記したものだが、その最後の条文で、陣中における宴会と、定められた「器」以外の無用の荷物を持参することを禁止している。これによって、陣中に「器」を持参していたこと、その種類が規制されていたことが分かる。
2つ目の史料は、巳年2月9日付並木某宛北条氏照朱印状で、『戦国遺文』後北条氏編では天正9年に比定している。この史料では、城の在番を命じたものであるが、2条目に、通路が不自由であるので、30日分の支度を一度に持参すること、3条目に、「薄漆」を持参し、番中支度することと定められている。在番に際し、日数分の支度をし持参させていたことが分かる。
このことから、軍事拠点として機能した城においては、遺物の消費がほとんどなされていない可能性が高い。