1)縄張研究
縄張り研究からは、木島孝之氏「城郭研究−「縄張り研究」の独自性を如何に構築するか−」(『建築史学』59、2012)を得た。
木島氏は、縄張り研究が中世城研究を牽引してきたが、文献史学・考古学側から投げかけられた、「村の城論」「公的城郭論」「杉山城問題」によって、「混迷する姿が少なからず見受けられ」たことを指摘した(137頁)。
そして、この混迷の原因を、「縄張り研究は中世・戦国期城館への多様な眼差しを持ってはいるものの、それを説明する独自の私領処理の手法を構築できていない」点にあるとし(138頁)、その克服のために、千田嘉博氏の論文(「織豊系城郭の構造−虎口プランによる縄張り編年の試み」『史林』70巻2号、1987など)を再評価し(143頁)、「進化論的型式学による縄張りの絶対的年代観と権力論、築城主体を追及し、突き詰めてみるべき」と述べた(140頁)。
また、「杉山城問題」については、
- 足利高基書状にある「椙山之陣」は、「陣城」を意味するのではなく、椙山方面での「戦闘」を指すことが明白であり、文書の誤読である(145頁)。
- 陶磁器編年案には、標準遺跡の年代観について入念に再検証を行う必要性がある(146頁)。
とし、「そもそも「杉山城問題」自体が存在しない」と断じた(145頁)。その上で、「杉山城は関東の最終的発展型であり、同城と酷似する西方城や同型の滝山・栗橋城は後北条氏末期まで機能する」ことなどから、「杉山城は後北条氏側が豊臣軍の来襲に備えて構築した繋ぎの城と考えられる」と指摘した(146頁)。
2)考古学
○論文
発掘調査成果による城の年代決定と、文献史学や縄張研究によるそれとの「ずれ」の問題、及び、いわゆる「杉山城問題」ついて検討した論文として、簗瀬裕一氏「東国における戦国期城館と出土遺物の年代観についてー年代の「ずれ」と欠落の問題を中心に−」(佐藤博信編『中世房総と東国社会』岩田書院、2012)を得た。
簗瀬氏は、考古学の立場から、城館と出土陶磁器の年代の「ずれ」について、房総の事例を中心に検討し、杉山城についても併せて検討した。
結論として指摘したのは、以下の2点である。
- 年代の「ずれ」の問題について
- 戦国期の陶磁器を欠く遺跡が少なからず存在しており、「城館の出土資料がそのまま素直に城館の年代や歴史を反映しているという前提を、白紙に戻す必要がある」(230頁)。
- 「城館の年代を導き出すためには、陶磁器等の詳細な出土状況を分析し、廃棄時期を明らかにするという綿密な資料操作が必要で、考古資料の形成プロセスを織り込んだ研究の方向性が求められる」(同上)。そのためには「陶磁器のみでは限界があるのは明らか。かわらけを主とする在地産土器類の編年研究」が重要である(同上)。
- 「杉山城問題」について
- 遺物は、後期W新段階を主とするが、大窯1段階も一定量伴っており、貿易陶磁による瀬戸美濃の置き換えもみられることから、「時期的には16世紀に主体があるといえる」(228頁)。
- 山内上杉氏のかわらけと扇谷上杉氏のそれが出土しており、2つのタイプのかわらけは時期差によるものと考えられ、ある程度の期間存続した可能性がある(230頁)。
- 中井均氏の「前田利家改修説は、陶磁器の欠落を想定しても中世末という年代には賛同できない」(230頁)。
このように、簗瀬氏は、考古学的に城の年代を導き出す方法について再考の必要性を訴えるとともに、杉山城についても、16世紀を主体に、ある程度の期間存続した可能性があると指摘した。
○発掘調査成果
3)文献史学
文献史学においても、「杉山城問題」に関する論文が発表された。
竹井英文氏は、「その後の「杉山城問題」 −諸説に接して−」(『千葉史学』60、2012)の中で、竹井氏の前稿「戦国前期東国の戦争と城郭 −『杉山城問題』に寄せて」(『千葉史学』51、2007年)の確認と「杉山城問題」に関する諸論点等を整理・検討した上で、自身の見解を提示した。
まず、「杉山城問題」に関する諸論点等については1)、
- 松岡進氏の竹井説批判について。
松岡氏自身の杉山城の年代観・築城主体の比定が述べられていない。肝心な部分が述べられないまま批判されており、対案を提示しない限り、「現状では生産的な議論はできないように思う」(48頁)。
- 中井均氏の杉山城天正18年(1590)前田利家築城説について。
遺物編年を正しいとしながらも、それを棚上げにして立論していることから、中井氏の説には従い難い。また、論拠している前田利家書状写の解釈は誤りである(48頁)。
- 中西義昌氏の杉山城天正後期北条氏築城説について。
「求心的かつ理念型に基づいた縄張技術を駆使できる築城主体は戦国前期には見出せ」ないと断定できる明確な根拠はない。また、「北条氏系城郭」の概念規定が全く行われておらず、杉山城の縄張りが北条氏に限定されるとする根拠もはっきりしない(49頁)。「結局、滝山城などと類似性があるから北条氏の城だとしてきた循環論法的な従来の縄張研究と大差なく、年代を新しく設定しただけである」(50頁)。
と批判した。その上で、前稿で詳しく触れなかった「椙山之陣」の解釈について検討し、
- 「陣」とは、軍勢が駐屯している場そのものを指す言葉と捉えるべきで、その実態は様々である(53頁)。
- 「椙山之陣」は、杉山での戦闘を指す言葉とは考えられない。上杉憲房が「椙山」に在陣し、それが「椙山之陣」と呼ばれたのである。また、「椙山之陣」の攻撃対象となるべき杉山城の存在は想定できず、発掘調査成果でも、杉山城は臨時的な城と評価されている。よって、「椙山之陣」=杉山城と考えられる(54・55頁)。
として、杉山城が戦国時代前期に機能していたことを示し、前稿で提示した竹井氏の説を補強した。
さらに竹井氏は、「今後は各方法論において今一度基本に立ち返り、何がどこまでいえるのかという基礎的研究を着実に積み重ねていくことが必要」(56頁)として、今後の中世城研究の課題を提示した。
4)2012年の研究 ‐概括‐
以上、2012年の中世城研究の歴史を整理した。最後に、現在の中世城研究の問題点と今後について、私自身の意見を述べることにする。
縄張り研究について
中世城研究における考古学について
文献史学
記述更新日:2013年4月26日
註
1)↑なお、「杉山城問題」の論点は、当ホームページ「お城の研究史」の中にある「杉山城問題」の項で詳しくとりあげている。
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