最近まで、『家忠日記増補』や『甲陽軍鑑』の記述から、武田信玄は、元亀2年(1571)以降死去するまで、徳川家康の支配下にある遠江・三河両国に侵攻したとされてきた。 ここでは、元亀2年・同3年の武田信玄による遠江・三河両国の侵攻について、鴨川説が登場するまでの従来の見解と、それ以降の見解の変化について、整理していく。 目次 |
1.従来説まずは、鴨川説登場以前の従来説について整理する。なお、侵攻の経過については、従来説の論拠にもなっている、『甲陽軍鑑』を軸とした。ただし、人名については、同時代史料に基づいている。 |
高天神城から引き揚げた信玄は、武田方に服属した天野藤秀の本拠犬居城に進軍、三河国侵攻のために、犬居城の留守居を定めたのち、懸川城・久野城の様子を見て回った上、いったん信濃国高遠城に帰陣、武田信廉を高遠城の留守居に定めた。 その後、足助城近辺の城である、浅賀井・阿須利・大沼・田代・八桑の6つの城が陥落、勢いに乗る信玄は、軍を東に向ける。 その後、徳川家康自身が、5千の軍勢を率いて出陣してきた。これに対し、山県昌景を先鋒、武田勝頼を大将とした8千5百の軍勢で迎え撃ち、信玄自身は、足助城などの守備兵として配置した千五百を除く、残り1万3千の軍勢を山へ上げ、陣を張った。 |
12月22日、有名な「三方ヶ原の合戦」で、徳川軍(と織田信長の援軍が少し)を撃退、そのまま家康の本拠浜松城を攻撃しようという意見が大勢を占めたが、春日虎綱(『甲陽軍鑑』では高坂弾正)の進言により、浜松城を放棄して進軍を再開、遠江国刑部において年を越した。 年が明けて、元亀4年1月7日、信玄は、刑部を出陣、11日、三河国野田城に押し寄せた。野田城城主菅沼定盈は、降伏して開城、2月15日、長篠において、奥平定能の人質と、菅沼定盈の人質交換が実施された。 信玄が休養している中、秋山虎繁が率いる別働隊が、3月15日、美濃国岩村城を攻撃、岩村城は陥落し、虎繁がそのまま岩村城に入城した。 こうして、各方面で戦果をあげていた武田軍であったが、信玄の病状は回復せず、3月末、長篠の北、宝来寺(ほうらいじ)へ軍を移し、撤退を開始した。しかし、甲府に戻ることは叶わず、4月12日、信濃国駒場にて死去する。53歳であった。 戦国時代の同時代史料(一次史料ともいう。その当時の人物が作成した文書類などのこと。後世に作成された編纂物などのことを、二次史料という。)のうち、手紙系のもの(書状という)は、年号を記していない。そのため、いつ書かれたものかを検証する作業が必要になる。これを年次比定という。 書状の年次比定をする際、差出人・宛先人の名前、差出人の花押の形、本文の内容、他の同時代史料との関連性などから判断する。ただ、今回の元亀2年(1571)・同3年の武田信玄による遠江・三河侵攻については、後世の編纂物を年次比定の典拠としたようだ。 表1 元亀2年と年次比定されてきた史料 ※各史料の詳細については、こちら(別ウィンドウで開きます)。 この史料の内容を見ると、特に表1−No.4は、上記「○元亀2年の侵攻」を読んでいただくと分かるように、『甲陽軍鑑』の記述と重複する部分が多い。『甲陽軍鑑』が、年次比定の典拠となったことが分かる1)。 ただいま整理中!! |
2.鴨川達夫氏の見解このように、元亀年間の武田信玄の軍事行動について、上洛を目指したものか、そうでないかで意見が分かれているものの、元亀2年・同3年に遠江・三河両国に侵攻したことについては、事実であるとして定着していた2)。これに対し、鴨川達夫氏は、著書『武田信玄と勝頼 −文書にみる戦国大名の実像』(岩波書店、2007年)の中で、これまでと異なる見解を提示した。 |
鴨川氏は、まず、元亀2年の武田信玄の遠江・三河侵攻について、表1−No.2・No.4の史料が、「元亀2年のものだという証拠は、筆者には見出すことができない。」(『武田信玄と勝頼 −文書にみる戦国大名の実像』、174頁。以下、引用部分については、頁数のみを記載する)として、同資料の年次比定を再検討した。その結果、
鴨川氏は、以上のことをふまえて、信玄の遠江・三河侵攻の目的・背景について、
このように、鴨川氏は、元亀2年の遠江・三河両国への侵攻はなかったこと、信玄は上洛への志向がなく、別働隊に担当させた岐阜方面が侵攻の本線であったこと、という点で、これまでとは全く異なる見解を提示したのである6)。 |
3.鴨川説を受けて −論争の展開−鴨川氏の見解の登場により、元亀年間から天正年間初めの武田氏の行動を触れる際、同氏の見解に賛同するか、それとも批判するか、立場を明らかにする必要が生じた。 ここでは、鴨川説登場後の反応について整理する。 |
鴨川氏の見解について、最初に本格的な検討を行ったのが、柴裕之氏であった。鴨川氏の著書が出る直前まで、従来説に従っていた柴氏であったが、論文「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」(『武田氏研究』37、2007年)を発表、その中で、「鴨川氏の指摘は、後述の通り年代推定をはじめ概ね同意できる」(35頁)として、それまでの見解を改めた。
また、柴氏は、鴨川説の検討ともに、以下のような新たな見解も提示した。
以上をふまえて、武田信玄の「西上」説について、信長包囲網が形成されていない以上、検討の余地があると述べ、信玄の遠江・三河両国侵攻の意図について、「足利義昭政権の誕生と今川領国への侵攻という政治動向の展開上で至った戦争で、これが中央政界との関わりを有し信長包囲網という政情を生じさせた」(47頁)と述べた。 以上、鴨川・柴両氏により、史料の年次比定が大幅に見直されることとなった。年次比定が修正された史料は、以下の通りである。
鴨川・柴両氏の見解が提示された後、両氏の説を受け入れる動きが見られたが8)、それに疑問を投げかけたのが、柴辻俊六氏である。柴辻氏(2012/11/16「柴氏」から訂正しました)は、「武田信玄の上洛と織田信長」(『武田氏研究』40、2009年)の中で、以下のように述べた。
また、元亀2年の遠江・三河両国への侵攻については、 から、元亀2年の遠江・三河両国への侵攻があった可能性を示した。 美濃国岩村城は、武田氏の攻撃によって陥落したのではなく、自発的に開城したものであったとするが、10月18日付河田重親宛上杉謙信書状(『上越市史』別編1−1130号)に、岩村城をめぐる攻防があったことがうかがえる。また、「岩村城が織田方の重要拠点であっただけに、城将らが自発的に投降したとの説は、奇異な感じを受ける」(8頁)として、柴氏の見解に否定的な考えを示した。 また、前述した、柴氏の新たな見解については、以下のように触れている。
以上をふまえて、武田信玄の「西上」説について、柴辻氏が従来説通り元亀2年に比定した『戦武』−1710に「令上洛」という文言があることから、「全体の戦略がすでに元亀2年段階から上洛にあったことも明らかである」(6頁)と述べ、従来と同様、「西上」説の立場に立った。 以上、柴辻氏の検討により、鴨川・柴両氏によって、年次比定が修正された史料は、以下のように再修正された。『戦武』−1701・1702・1704以外は、従来の年次比定に戻した形となった。
柴辻氏の批判に対し、反応したのは柴氏である。柴氏は、「長篠合戦再考 −その政治的背景と展開−」(『織豊期研究』12、2010年)の中で、次のように反論した。
また、柴氏は、天正3年の武田勝頼による三河侵攻の過程及び背景について考察し、以下のような見解を提示した。
このように、柴氏は、柴辻氏の批判に反論し、2007年に発表した論文の正当性を主張した。 柴氏の対応に対し、柴辻氏は、「元亀・天正初年間の武田・織田氏関係について」(『織豊期研究』13、2011年)を発表し、再度以下のように反論した。
その他、柴氏の提示した、天正3年の武田勝頼による三河侵攻の過程及び背景については、以下のように述べた。
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4.まとめと私見 |
以上、元亀2年・同3年の武田信玄による遠江・三河両国の侵攻について、研究史を整理した。ここで、改めて論点について整理しておく。 論点は多岐にわたるが、主要なものとして、
現在は、柴氏・柴辻氏による論争が繰り広げられており、容易に収まりそうもない。 まずは、元亀2年の遠江・三河両国侵攻の有無について、鴨川・柴両氏及び柴辻氏の論拠は、以下の通りである。
鴨川・柴両氏の論拠は、2点目の主要論点と重複するので、ここでは省略することとし、柴辻氏の論拠について検討する。『戦武』−1657・1664・1705については、重複するものもあるが、史料を別枠で掲載した。こちらを参照して欲しい(別ウィンドウで開きます)。 まず、『戦武』−1664・1705についてである。1664は、武田信玄が、孕石主水佑(もんどのすけ)に対し、格別の奉公と度々の戦功を賞し、知行を与えたものである。1705は、大坂本願寺の坊官下間頼廉(しもつま らいれん)に対し、信玄自身の遠江・三河表に出馬につき、書状及び太刀が贈られてきたことへの礼と、遠江・三河・美濃3ヶ国を残す所なく平定したことを述べている。 柴辻氏は、これらを元亀2年の侵攻があった論拠の1つとしている。しかしながら、1664は、確かに孕石主水佑の戦功を賞したものだが、度々の戦功が、何の戦いに関するものか記されておらず、元亀2年の遠江・三河両国侵攻の戦功を賞したと決めつけることはできない。むしろ、永禄11年12月から続く今川・北条氏との戦い、いわゆる「駿州錯乱」の一連の合戦によるものを指すと考えるのが妥当である。実際、永禄12年(1569)12月6日に、蒲原城攻めの戦功により、駿河国内で知行を与えることを約束されている15)。1664は、この約束を履行したものとすべきであろう。 また、柴辻氏は、1705について、特に論拠を示さず、元亀2年に比定される史料として扱っているが、次の画像をごらんいただきたい。『戦国遺文』武田氏編の画像である(著作権の問題があると思いますが、あえて掲載しました)。 では、1705は、何年に比定すべきであろうか。私は、1705と日付が近接し、「向遠三信玄出馬」「今度到遠参発向」という文言がある『戦武』−1709・1710(表1−No.5・No.6)と関連がある点、1705の本文の中に、遠江・三河両国だけでなく、美濃国まで平定したことが記されている点が、ポイントではないかと考える。 次に、『上越市史』別編1−1056号である。従来から元亀2年に比定されてきた史料であるが、その年次比定に言及したのは、管見の限り、栗原修氏である。栗原氏は、1996年に発表した論文「上杉氏の外交と奏者 −対徳川氏交渉を中心として−」(『戦国史研究』32号)の中でこの史料に触れ、 しかし、最後に残った1657については、前述(「1-2) 同時代史料の年次比定」)の通り、元亀2年の年次比定で、間違いない。1657に、「不図遠州江令出馬候事」や「向小山抜本取出事」と記されていることから、信玄が遠江国に出馬した可能性は、考えられるのである20)。 以上、元亀2年の遠江・三河両国侵攻の有無について、柴辻氏の論拠を検討した。
柴辻氏は、「元亀2年2月から5月にわたって、信玄が遠江から三河に出陣し、徳川家康を圧迫して、一定の戦果を上げていたことは確か」であると述べている21)。しかしながら、三河国への侵攻は確認できず、遠江国に侵攻した可能性があるにとどまった。さらに、北条氏との抗争は、深沢城開城後も一段落しておらず、例え遠江国に侵攻したとしても、「一定の戦果を上げていた」とは言い難い。 3)『戦武』−1701・1702・1704の年次比定について 次に、『戦武』−1701・1702・1704の年次比定について、鴨川・柴両氏及び柴辻氏の論拠は、以下の通りである。
柴辻氏は、『戦武』−1701・1702・1704を、天正3年と決定づける裏付け文書がない、と述べているが22)、むしろ、天正2年ではなく、天正3年とせざるを得ない材料を、柴辻氏自身が提示しているように思う。 もし『戦武』−1701・1702・1704が天正2年のものであるならば、『戦武』−1701に「不図当表出馬、為始三州足助城、近辺之敵城或攻落、或自落」と記されているように、勝頼は、4月の段階で「当表」、つまり三河国にいることになる。 以上のことから、『戦武』−2339は、天正2年に三河国に出陣していないことを決定づける裏付け文書である、と言える。 また、『戦武』−2315〜2317・2320・2322・2323は、勝頼が「近年至駿・遠両州出陣」の労をねぎらっているが、ここにも三河国は載っていない。さらに、天正2年12月18日付飯尾弥四右衛門尉宛武田勝頼判物(『戦武』−2411)には、「法性院殿(武田信玄のこと)遠州御乱入之砌(みぎり)」とある。この史料も、遠江国のみ記されており、三河国は載っていない。 よって、『戦武』−1701・1702・1704は、天正3年に比定すべきである。 |
5.おわりに |
以上、元亀2年・同3年の武田信玄による遠江・三河両国の侵攻について、鴨川説が登場するまでの従来の見解と、それ以降の見解の変化について、整理した。 史料の年次比定は、難しいものですね・・・・。まだまだ、変更される史料が多く埋もれていると思います。 記述完了:2012年6月28日 |
1)↑鴨川氏・柴氏は、『家忠日記増補』元亀2年4月15日条の「信玄兵ヲ信州ヨリ発シテ、足助ノ城ヲ攻ント欲ス、城主鈴木喜三郎城ヲ避テ退ク」という記事を典拠としている、とする(鴨川達夫『武田信玄と勝頼 −文書にみる戦国大名の実像』岩波書店、2007年、175頁、及び柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』37、2007年、36頁)。
2)↑ただ、鴨川氏が新たな見解を出す前に、『戦武』−1701号や同−1704号の史料について、元亀2年以外の年次比定を行った者が皆無であったわけではない。柴辻氏の指摘によると、佐藤八郎氏は、著書『武田信玄とその周辺』(新人物往来社、1979年)の中で、天正3年と推定し、また、『足助町誌』(足助町誌編集委員会、1975年)は、天正2年と推定したという(柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』40、2009年、註4)。
3)↑理由として、9月26日付で越中国に届けた書状(『戦武』−1957)では、はっきり越後国に出馬すると述べているが、翌日の27日は、遠江・三河両国に向けて部隊を動かし始めていること、朝倉氏・本願寺の要請がなければ出陣しなかったこと、などを挙げている。
4)↑理由として、三方原合戦の後、家康に止めを刺さずに三河国に転進したことを挙げている。
6)↑鴨川氏は、この著書の中で、他にも史料の年次比定の修正を行っている。
5月13日付武田信玄宛足利義昭書状(『戦武』−4049)は、従来の元亀3年から元亀4年に(183・184頁)、 5月17日付岡周防守宛武田信玄書状 (『戦武』−1710)・7月3日付某宛武田信玄書状 (『戦武』−1725) は、元亀2年から元亀4年に(188・189頁)、 10月1日付勝興寺宛武田信玄・勝頼連署状 (『戦武』−1966)は、元亀3年から元亀4年に(190頁)、それぞれ修正している。
7)↑理由として、
1.元亀4年に推定される、2月16日付東老軒宛武田信玄書状(『戦武』−2021)に、「朝倉氏及び大坂本願寺の要請により、遠江国に出馬した」と記されていること。
2.表1−No.6は、元亀4年に推定される、3月14日付武田信玄宛本願寺顕如書状案(『戦武』−4067)で、三好・松永両氏との交渉が「調略半」、つまり交渉中であったことから、元亀2年の段階で、武田・松永両氏間に外交関係が成立しておらず、元亀2年ではなく、元亀4年に年次比定できること。
3.将軍足利義昭は、織田信長と大坂本願寺の和睦仲介を、武田信玄に命じている(『戦武』−1733・1734・1741)。これは、従来、元亀2年のこととされてきたが、関連する『戦武』−4052が、元亀3年と推定できること、義昭が信長に敵対したのは、元亀4年2月以降であることから、元亀3年のこととすべきである。
このことから、元亀3年8・9月の段階で、義昭と信長が、敵対関係になかったことが分かる。
4.武田信玄は、侵攻の最中に、義昭との連携を求めたのであり、侵攻前から提携していないこと。これは、天正元年に推定される、12月28日付伊達輝宗宛織田信長朱印状(『織田信長文書の研究』上巻−430号)に、「武田・朝倉などの諸氏の働きかけにより、義昭が敵対した」と記されていること、5月13日付武田信玄宛足利義昭書状(『戦武』−4049)に、信玄から義昭に、忠節を約束した起請文が提出されたことが記されているが、これは、鴨川氏が述べるように、元亀3年ではなく元亀4年に年次比定されること。
ことを挙げている。
8)↑例えば、小笠原春香氏は、論文「武田氏の外交と戦争 −武田・織田同盟と足利義昭−」(柴辻俊六編『戦国大名武田氏の役と家臣』岩田書院、2011年)の中で、鴨川氏と柴氏の見解について触れ、徳川家康と敵対すれば、信長とも敵対する可能性が高くなるため、武田信玄は、家康だけでなく信長にも対抗する態勢を整える必要があった。元亀3年の織田・本願寺間の和睦仲介は、本願寺との同盟関係を強化するためであり、その点からみても、「信玄が遠江・三河侵攻を開始したのは元亀2年ではなく、今回の仲介が行われた後である元亀3年10月以降であると考えられる」(280頁)と述べている。
9)↑理由として、武田勝頼が、天正2年2月から6月にかけて、東美濃や遠江に侵攻し、明智城や高天神城を攻略していることなどを挙げている。
10)↑具体的には、表1−No.1に「遠州江出馬」「向小山抜本取出」とあること、5月6日付下間頼廉宛武田信玄書状(『戦武』−1705)に「遠三表出馬」とあることなどを挙げている。
11)↑柴辻氏は、織田信長と足利義昭の関係について、元亀元年正月23日の五箇条の条目頃より悪化し、元亀3年9月28日の信長の異見17箇条頃になると、「表面的には両者の提携関係は保たれていたが、実質的にはすでに破綻していたみるのが自然であろう」(7頁)と述べている。
これをふまえて、『戦武』−1710は、「信玄没後に花押で出されたものは、まず皆無だし、存在したとしても真偽が問題となる」(6頁)とし、『戦武』−4049についても、「一方的な判断であり、仮に信玄の死去をこの段階で義昭が知らなかったとしても、両者の関係からみて遅すぎる年代推定であるといえる」(7頁)と述べ、従来通り元亀2年で可とし、信長包囲網は構築されていた、とした。
さらに、柴氏が元亀3年と推定し直した、『戦武』−1733・1734についても、『戦武』−1741に、「上杉輝虎可被和与之旨、頻被 仰出候」(上杉輝虎と和与するよう、しきりに御命じになった)とあることから、元亀2年が適当としている(5頁)。
12)↑なお、『愛知県史』資料編11でも掲載されているが(773号)、追而書の書き方が異なり、また、『上越市史』は「内々其口無心元処」と記しているのに対し、『愛知県史』は「内々廿六日無心元処」と記しており、本文に異同がある。『上越市史』別編1の別冊に原本の写真が掲載されていたので、確認したところ、追而書の書き方は『愛知県史』が、本文の異同については『上越市史』が正しいことが分かった。ここに記して、注意を喚起する。
13)↑なお、柴辻氏は、検討にあたり、「天正2年の従来の年表では、4月28日に、勝頼は越中の一向一揆の将である杉浦氏に越後への出陣を要請し、6月に遠江に進攻して高天神城を攻略したというものであった。これらは前述した年未詳4通(筆者註:『戦武』1701〜1704)の書状の年号を、天正2年のものとみてのことであり、その検討が必要になってくる」(3頁)と述べている。
しかしながら、鴨川氏の著書が刊行されるまで、4通の書状の年号は、元亀2年が通説であったはずであり、なぜ「天正2年のものとみて」と述べたのか理解に苦しむ。
14)↑具体的には、
1.6月5日付佐治為平宛織田信長朱印状(『愛知県史』資料編11−951号)に、遠江国の在陣衆に兵粮を届けるよう命じている
2.8月24日付下間頼慶宛武田勝頼書状(『戦武』−2339)で、「去夏信長向其口、動干戈候之条、為御手合遠州出張、永々在陣、至于去月下旬帰鞍」といい、再度尾張・三河表に出陣すると伝えていること。
3.『譜牒余録』に収録されている西郷氏の書き上げに、『戦武』−1704と同じような内容のことが天正2年とされている。
点などを挙げている。
16)↑柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』40、2009年、7頁。
17)↑さらに言えば、柴辻氏は、「元亀2年正月の武田氏による深沢城の攻略をもって、対決は一段落していた」と述べているが(柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』40、2009年、2・3頁)、元亀2年正月の深沢城開城の段階で、北条氏との抗争に決着がついたわけではない。それ以降も、北条氏は、人改めを実施し(「武州文書」『静岡県史』資料編8−312号)、駿河国との国境にある足柄・河村城の普請を急がせる(「富士山本宮浅間大社文書」『静岡県史』資料編8−313号)など、信玄との戦いに備えようとしていた。実際、信玄は武蔵国に軍勢を派遣したようで、2月26日には同国源長寺に、6月12日には甘棠院に、それぞれ軍勢の濫妨狼藉を禁止する高札を与えており(「源長寺文書」『戦武』−1660、「甘棠院文書」『戦武』−1722)、北条氏側も、北条氏邦が高岸対馬守に対し、2月27日に「敵」が武蔵国石間谷に侵入してきた際の戦功を賞している(「高岸文書」『戦国遺文』後北条氏編−1470号)。この「敵」は、武田氏と考えられる。
このように、武田氏と北条氏との抗争は、引き続き続いており、とても遠江・三河・美濃国へ侵攻する余裕があったとは思えない。この点から考えてみても、1705を元亀2年に比定することはできない。
18)↑なお、丸島和洋氏が、1705を元亀3年と比定しているが(http://members3.jcom.home.ne.jp/kazu_maru/zakki2010.htmlの2010-09-20の部分)、「遠三表出馬、就本意芳墨(ほうぼく)、殊為祝儀太刀一腰到来」と(遠江・三河表に出馬、本意につき手紙、特に祝儀として太刀1腰到来し)とあることから、1705は、信玄が遠江・三河両国に出馬し、目的を達成後に、大坂本願寺から祝いの手紙と贈り物が来たことを受けて作られた書状であることが分かる。
となると、元亀3年に比定したのでは、元亀3年5月以前に信玄の遠江・三河両国出馬があったことになる。信玄の出馬は、同年10月以降のことであり、元亀3年1〜5月に出馬はなかった。また、元亀2年のこととを指すとすれば、本文に述べた通り、1705に遠江・三河両国だけでなく、美濃国まで平定したことが記されている点で、問題が生じる。
よって、私は、元亀3年の比定は成り立たないと考える。
19)↑年次比定を再検討し、私見を述べるべきところであるが、上杉氏と徳川氏の同盟の流れ全体を再検討する必要が生じるため、紙面及び時間の都合から、今回は省略した。
20)↑なお、柴氏が論拠とした、『戦武』−1976の「可散三ヶ年之鬱憤候」は、高天神城の開城という好機到来を受けて発言したものである。この文言から、元亀3年10月以前に、徳川氏との抗争がなかったことを示すことはできない。
21)↑「元亀・天正初年間の武田・織田氏関係について」(『織豊期研究』13、2011年、3頁。
23)↑『愛知県史』資料編11−951号は、遠江国の在陣衆に兵粮を届けるよう命じているものであるが、これも遠江国であって、三河国のことではない。よって、天正2年説の論拠として成立しない。
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