静岡県のお城静岡県の戦国時代>元亀2年(1571)・同3年の武田信玄による遠江・三河侵攻について





最近まで、『家忠日記増補』や『甲陽軍鑑』の記述から、武田信玄は、元亀2年(1571)以降死去するまで、徳川家康の支配下にある遠江・三河両国に侵攻したとされてきた。
しかしながら、2007年、鴨川達夫氏が、信玄の遠江・三河両国の侵攻について再検討し、元亀2年の遠江・三河両国の侵攻はなかった、などとする見解を出したことで、大幅に見直す必要が生じることとなった。

ここでは、元亀2年・同3年の武田信玄による遠江・三河両国の侵攻について、鴨川説が登場するまでの従来の見解と、それ以降の見解の変化について、整理していく。






目次

  1. 従来説

    1. 武田信玄の遠江・三河侵攻


    2. 同時代史料の年次比定


    3. 侵攻の目的・背景


  2. 鴨川達夫氏の見解

    1. 武田信玄の遠江・三河侵攻


    2. 侵攻の目的・背景


  3. 鴨川説を受けて −論争の展開−

    1. 柴裕之氏の見解


    2. 柴辻俊六氏による鴨川・柴両説の批判


    3. 柴氏による柴辻氏見解への対応


    4. 柴辻氏の再批判


  4. まとめと私見

    1. 論点の整理


    2. 元亀2年の遠江・三河両国侵攻の有無について


    3. 『戦武』−1701・1702・1704の年次比定について


  5. おわりに







1.従来説


まずは、鴨川説登場以前の従来説について整理する。なお、侵攻の経過については、従来説の論拠にもなっている、『甲陽軍鑑』を軸とした。ただし、人名については、同時代史料に基づいている。



1)武田信玄の遠江・三河侵攻

○元亀2年の侵攻

武田信玄は、元亀2年2月16日、甲斐国甲府を出陣し、駿河国大宮に到着した。同所において3日間逗留し、同国田中へ進軍した。
2月24日、遠江国に侵入した信玄は、まず同国小山へ進軍、城を構築し、大熊長秀を配置、遠江国侵攻のための橋頭堡を確保する。
3月初旬、小笠原氏忠の籠る高天神城の攻撃を開始した。しかし、小笠原軍の奮戦により、容易に城が落ちなかったことから、信玄は、内藤昌秀に、小笠原軍を城内に追い込み、城を封鎖するよう命じた。昌秀はその任務を達成、封鎖に成功する。





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図1 元亀2年の遠江・三河侵攻の経過
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高天神城から引き揚げた信玄は、武田方に服属した天野藤秀の本拠犬居城に進軍、三河国侵攻のために、犬居城の留守居を定めたのち、懸川城・久野城の様子を見て回った上、いったん信濃国高遠城に帰陣、武田信廉を高遠城の留守居に定めた。
3月26日、信玄は高遠城を出陣、2万3千の軍勢をもって三河国へ侵攻し、4月15日、同国足助城に押し寄せた。すると、足助城城主鈴木修理は開城し、退却した。信玄は、足助城をそのまま保有、下条氏を配置した。

その後、足助城近辺の城である、浅賀井・阿須利・大沼・田代・八桑の6つの城が陥落、勢いに乗る信玄は、軍を東に向ける。
これに対し、野田城城主菅沼定盈(さだみつ)は、武田軍の侵攻を阻止するべく、野田城の近辺に取出を構築した。信玄は、武田勝頼を大将に、服属したばかりの作手城城主奥平定能(さだよし)・田峯城城主菅沼刑部丞・長篠城城主菅沼右近助を案内者として攻撃、定盈は取出を捨てて退却した。
定盈の抵抗を排し、いよいよ、徳川家康の三河国支配における拠点、吉田城に軍を向ける。しかし、家康が、二連木城に兵を入れ、吉田城への攻撃を阻止しようと試みたため、全軍をもって二連木城に攻め寄せた。これを見た二連木城の徳川軍は、戦うことなく退却した。

その後、徳川家康自身が、5千の軍勢を率いて出陣してきた。これに対し、山県昌景を先鋒、武田勝頼を大将とした8千5百の軍勢で迎え撃ち、信玄自身は、足助城などの守備兵として配置した千五百を除く、残り1万3千の軍勢を山へ上げ、陣を張った。
家康は、早々に吉田に退却、武田軍はそのまま吉田城に進軍し、攻撃するも、攻略することはできなかった。
吉田城の攻略は果たせなかったものの、信玄は、牛久保・長沢といった諸城を攻撃したのち、三河国設楽郡などの処置を行った上、5月、帰陣した。



○元亀3年の侵攻

元亀3年10月中旬、武田信玄は、甲府を出陣、遠江国へ侵攻した。これと同時に、山県昌景が別働隊を率い、信濃国伊那谷から東三河に侵攻している。

遠江国に侵攻した信玄は、途中、徳川軍に三箇野川で迎撃を受けたが、これを撃退。徳川軍は、本多忠勝を最後尾に置いて浜松に帰陣している。信玄は、武田勝頼・同信豊・穴山信君に二俣城攻撃を命じ、旗本・馬場信春隊・北条氏の援軍を率いて袋井方面に進軍、家康の二俣城救援を妨害した。
二俣城は、1ヶ月程度持ちこたえたものの、水の手を取られたため開城。信玄は、二俣城に芦田信守を配置し、2手に分けていた軍勢を合流させて、進軍を再開した。





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図2 元亀3年の遠江・三河侵攻の経過
(日付は同時代史料に基づく)
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12月22日、有名な「三方ヶ原の合戦」で、徳川軍(と織田信長の援軍が少し)を撃退、そのまま家康の本拠浜松城を攻撃しようという意見が大勢を占めたが、春日虎綱(『甲陽軍鑑』では高坂弾正)の進言により、浜松城を放棄して進軍を再開、遠江国刑部において年を越した。

年が明けて、元亀4年1月7日、信玄は、刑部を出陣、11日、三河国野田城に押し寄せた。野田城城主菅沼定盈は、降伏して開城、2月15日、長篠において、奥平定能の人質と、菅沼定盈の人質交換が実施された。
野田城を攻略し、進軍を再開するかに見えたが、信玄の病気が悪化したため中止、長篠城に入って身体を休めた。

信玄が休養している中、秋山虎繁が率いる別働隊が、3月15日、美濃国岩村城を攻撃、岩村城は陥落し、虎繁がそのまま岩村城に入城した。

こうして、各方面で戦果をあげていた武田軍であったが、信玄の病状は回復せず、3月末、長篠の北、宝来寺(ほうらいじ)へ軍を移し、撤退を開始した。しかし、甲府に戻ることは叶わず、4月12日、信濃国駒場にて死去する。53歳であった。


2)同時代史料の年次比定

戦国時代の同時代史料(一次史料ともいう。その当時の人物が作成した文書類などのこと。後世に作成された編纂物などのことを、二次史料という。)のうち、手紙系のもの(書状という)は、年号を記していない。そのため、いつ書かれたものかを検証する作業が必要になる。これを年次比定という。

書状の年次比定をする際、差出人・宛先人の名前、差出人の花押の形、本文の内容、他の同時代史料との関連性などから判断する。ただ、今回の元亀2年(1571)・同3年の武田信玄による遠江・三河侵攻については、後世の編纂物を年次比定の典拠としたようだ。
ここでは、元亀2年と年次比定されてきた史料を紹介する。


表1  元亀2年と年次比定されてきた史料

※各史料の詳細については、こちら(別ウィンドウで開きます)。


この史料の内容を見ると、特に表1−No.4は、上記「○元亀2年の侵攻」を読んでいただくと分かるように、『甲陽軍鑑』の記述と重複する部分が多い。『甲陽軍鑑』が、年次比定の典拠となったことが分かる1)
その他、No.2は、足助城を攻略したことが記されており、No.4と関連性のある史料であることが分かる。No.3も、吉田城を攻撃した記述があり、No.4と関連する。
No.1は、「一、氏政向御厨相詰 無功退散候、」がポイントである。御厨は、現在の静岡県御殿場市(※要『静岡県の地名』チェック)に比定され、そこに北条氏政が存在したのは、元亀元年12月から元亀2年正月の深沢城攻防戦しかないことから、No.1は、元亀2年に比定された。
No.5は、「今度到遠参発向、過半属本意候」と、遠江・三河両国に侵攻し、過半を平定した、と述べていることと、日付が5月17日であることから、『甲陽軍鑑』の、元亀2年5月に帰陣したとの記述をもとに、元亀2年に比定したと思われる。No.5は、No.6の関連史料である。No.7も、日付が7月3日であることから、『甲陽軍鑑』の、元亀2年5月に帰陣したとの記述がもとであろうか。


3)侵攻の目的・背景

ただいま整理中!!



2.鴨川達夫氏の見解


このように、元亀年間の武田信玄の軍事行動について、上洛を目指したものか、そうでないかで意見が分かれているものの、元亀2年・同3年に遠江・三河両国に侵攻したことについては、事実であるとして定着していた2)。これに対し、鴨川達夫氏は、著書『武田信玄と勝頼 −文書にみる戦国大名の実像』(岩波書店、2007年)の中で、これまでと異なる見解を提示した。
ここでは、ターニングポイントとなった鴨川氏の見解を整理していく。



1)武田信玄の遠江・三河侵攻

鴨川氏は、まず、元亀2年の武田信玄の遠江・三河侵攻について、表1−No.2・No.4の史料が、「元亀2年のものだという証拠は、筆者には見出すことができない。」(『武田信玄と勝頼 −文書にみる戦国大名の実像』、174頁。以下、引用部分については、頁数のみを記載する)として、同資料の年次比定を再検討した。その結果、

  1. 文面には、信玄の姿はまったくなく、勝頼が自分の行動を報じたものであるとしか受け取れない。4月の三河攻めは、勝頼が自らの責任において実施したもの、つまり、信玄が真で勝頼が当主になってからの出来事であろう。

  2. 文面を注意して読むと、勝頼は、引き続き長篠に進む考えを示している。日付の関係からしても、長篠の合戦に先立つ状況に違いない。
として、これらの史料を天正3年(1575)のものと年次比定し、「4月の三河攻めは、天正3年の勝頼の行動なのであって、『元亀2年4月の信玄の三河攻め』は、まったくの虚構なのである」(174頁)と述べた。さらに、
  1. 徳川家康の領国に攻め込むことは、織田信長を敵に回すことになる。また、信長とは、元亀3年10月時点で、なお友好関係にあった。

  2. 元亀2年の段階で、信玄は、上杉謙信とも北条氏康・氏政とも敵対していた。
という点から、周辺勢力との関係から考えても、謙信・氏康と敵対している上に、「家康・信長とも敵対し、進んで三方を囲まれるような状況に陥ることは、さすがの信玄も避けざるを得なかった」(176頁)と述べ、「元亀2年から3年にかけての信玄は、少なくとも西へ向けては、まったく行動しなかったことになる。信玄にとって、元亀2・3年は、北条氏や家康・信長の動向を睨みつつ、今後採るべき道を熟慮する時期であったのかもしれない。」(177頁)と結論付けた。


2)侵攻の目的・背景

鴨川氏は、以上のことをふまえて、信玄の遠江・三河侵攻の目的・背景について、

  1. 信玄が、遠江・三河両国への侵攻に積極的であったとは言えないこと3)

  2. 徳川家康を倒す意図はなく、一定の打撃を与えれば十分だった4)

  3. 遠江・三河両国への侵攻に先立ち、飛騨国の諸氏に工作を行っていること。

  4. 信玄は、いずれ岐阜を攻めるつもりがあった5)

の、4点を挙げ、「以上を総合すれば、別働隊に担当させてはいるものの、岩村を経て岐阜へ進むこと、つまり岐阜を本拠地とする信長と対決することが本線であり、遠江・三河への一撃と飛騨への工作は、本線の南側と北側に安全地帯を作ろうとしたのだと解釈できるだろう。」(180頁)「信玄は信長と対決する路線を歩みながらも、それは必ずしも彼の本意ではなかったことになる。要するに、義景や本願寺など、当時信長に圧迫されつつあった勢力によって、反信長陣営の主将として引っ張り出されたのである」(181頁)と述べた。



このように、鴨川氏は、元亀2年の遠江・三河両国への侵攻はなかったこと、信玄は上洛への志向がなく、別働隊に担当させた岐阜方面が侵攻の本線であったこと、という点で、これまでとは全く異なる見解を提示したのである6)






3.鴨川説を受けて  −論争の展開−


鴨川氏の見解の登場により、元亀年間から天正年間初めの武田氏の行動を触れる際、同氏の見解に賛同するか、それとも批判するか、立場を明らかにする必要が生じた。

ここでは、鴨川説登場後の反応について整理する。



1)柴裕之氏の見解

鴨川氏の見解について、最初に本格的な検討を行ったのが、柴裕之氏であった。鴨川氏の著書が出る直前まで、従来説に従っていた柴氏であったが、論文「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」(『武田氏研究』37、2007年)を発表、その中で、「鴨川氏の指摘は、後述の通り年代推定をはじめ概ね同意できる」(35頁)として、それまでの見解を改めた。
同論文による柴氏の鴨川説の検討と、その結果については、以下のように整理できる。

  1. 元亀2年と比定されてきた、表1−No.4について。
      @『当代記』天正3年の記事と合致する。
      A勝頼がこの軍事行動の主体として見える。
      B表1−No.2の史料に見られる「畢竟織田上洛之上、大坂へ取懸候由条」は、天正2年以降に見られだす織田信長と大坂本願寺との政治状況である。
    以上から、鴨川氏の天正3年説は正しい。また、元亀3年10月以前の武田氏による遠江・三河両国への侵攻はなかった(なお、『戦国遺文』武田氏編−1976号[以下、『戦武』−1976と略す]にある、「可散三ヶ年之鬱憤候」から、「元亀3年10月からの信玄の軍事行動が対徳川氏への「三ヶ年之鬱憤」を散じることに目的があるのなら、このことは同時にこの時期まで徳川氏との戦争はなかったということを示していよう」とも述べている(38頁)。20120615追記)。


  2. 元亀3年から同4年における武田氏の軍事行動について。
      @従来、東美濃侵攻に関わってきたとされてきた秋山虎繁は、元亀4年3月6日以前まで、関わっていなかった。
      A美濃国岩村城は、武田氏の攻撃によって陥落したのではなく、自発的に開城したものであった。
      B信玄は、岩村城開城を受けて、美濃国侵攻を表明している。
    以上から、武田氏の美濃国攻めは、遠江・三河両国侵攻の展開するなかで持ち出されたものであり、岐阜方面の攻略こそが本線であるとする、鴨川氏の見解は支持できない。


また、柴氏は、鴨川説の検討ともに、以下のような新たな見解も提示した。

  1. 元亀3年の武田信玄の進軍ルートは、『当代記』元亀3年10月条より、甲府から駿河国を経て遠江国に入るものであり、信濃国から遠江国に入ったわけではない。

  2. 従来、元亀2年に帰属したと考えられてきた、天野氏、山家三方衆(奥平・田峯菅沼・長篠菅沼)の武田氏への帰属時期は、元亀3年である。

  3. 元亀3年10月の信玄の遠江・三河侵攻の開始時点で、足利義昭、三好・松永両氏との提携はなく、従来言われたような、織田信長包囲網はなかった7)

以上をふまえて、武田信玄の「西上」説について、信長包囲網が形成されていない以上、検討の余地があると述べ、信玄の遠江・三河両国侵攻の意図について、「足利義昭政権の誕生と今川領国への侵攻という政治動向の展開上で至った戦争で、これが中央政界との関わりを有し信長包囲網という政情を生じさせた」(47頁)と述べた。


以上、鴨川・柴両氏により、史料の年次比定が大幅に見直されることとなった。年次比定が修正された史料は、以下の通りである。

史料名出典従来の年次比定鴨川・柴両氏の年次比定
4月28日付杉浦紀伊守宛武田勝頼書状『戦武』−1701元亀2年天正3年
4月晦日付下条信氏宛武田勝頼書状『戦武』−1702元亀2年天正3年
4月晦日付孕石元泰宛山県昌景書状写『戦武』−1704元亀2年天正3年
5月17日付岡周防守宛武田信玄書状『戦武』−1710元亀2年元亀4年
7月3日付某宛武田信玄書状『戦武』−1725元亀2年元亀4年
8月13日付下間上野法眼御房宛武田信玄書状『戦武』−1733元亀2年元亀3年
8月13日付某宛武田信玄書状『戦武』−1734元亀2年元亀3年
9月26日付一色藤長宛武田信玄書状写『戦武』−1741元亀2年元亀3年
10月1日付勝興寺宛武田信玄・勝頼連署状『戦武』−1966元亀3年元亀4年
5月13日付武田信玄宛足利義昭書状『戦武』−4049元亀3年元亀4年


2)柴辻俊六氏による鴨川・柴両説の批判

鴨川・柴両氏の見解が提示された後、両氏の説を受け入れる動きが見られたが8)、それに疑問を投げかけたのが、柴辻俊六氏である。柴辻氏(2012/11/16「柴氏」から訂正しました)は、「武田信玄の上洛と織田信長」(『武田氏研究』40、2009年)の中で、以下のように述べた。

  1. 元亀2年と比定されてきた、表1−No.4について。
    確かに、元亀2年とするには、「少し無理があるようである」(2頁)が、天正3年ではなく、天正2年とする可能性も考えるべきである9)
    また、元亀2年の遠江・三河両国への侵攻については、

    1. 徳川方の記録類に、元亀2年4月の武田氏の遠江侵攻が記されていること。

    2. 直接的ではないが、この時期に武田氏が遠江へ侵攻したことを示す文書がいくつか確認できること10)


    から、元亀2年の遠江・三河両国への侵攻があった可能性を示した


  2. 元亀3年から同4年における武田氏の軍事行動について。
    美濃国岩村城は、武田氏の攻撃によって陥落したのではなく、自発的に開城したものであったとするが、10月18日付河田重親宛上杉謙信書状(『上越市史』別編1−1130号)に、岩村城をめぐる攻防があったことがうかがえる。また、「岩村城が織田方の重要拠点であっただけに、城将らが自発的に投降したとの説は、奇異な感じを受ける」(8頁)として、柴氏の見解に否定的な考えを示した。


また、前述した、柴氏の新たな見解については、以下のように触れている。

  1. 元亀3年の武田信玄の進軍ルートは、意見保留とする。

  2. 天野氏、山家三方衆(奥平・田峯菅沼・長篠菅沼)の武田氏への帰属時期は、元亀3年では遅すぎる。従来通り、元亀2年とすべきである。

  3. 柴氏は、織田信長包囲網はなかったとするが、柴氏が年次比定を修正した史料(『戦武』−1710号・4049号)は、従来通りの比定で正しく、信長包囲網は構築されていた11)

以上をふまえて、武田信玄の「西上」説について、柴辻氏が従来説通り元亀2年に比定した『戦武』−1710に「令上洛」という文言があることから、「全体の戦略がすでに元亀2年段階から上洛にあったことも明らかである」(6頁)と述べ、従来と同様、「西上」説の立場に立った。


以上、柴辻氏の検討により、鴨川・柴両氏によって、年次比定が修正された史料は、以下のように再修正された。『戦武』−1701・1702・1704以外は、従来の年次比定に戻した形となった。

史料名出典鴨川・柴両氏の年次比定柴辻氏の年次比定
4月28日付杉浦紀伊守宛武田勝頼書状『戦武』−1701天正3年天正2年の可能性が高い
4月晦日付下条信氏宛武田勝頼書状『戦武』−1702天正3年天正2年の可能性が高い
4月晦日付孕石元泰宛山県昌景書状写『戦武』−1704天正3年天正2年の可能性が高い
5月17日付岡周防守宛武田信玄書状『戦武』−1710元亀4年元亀2年
7月3日付某宛武田信玄書状『戦武』−1725元亀4年記述なし
8月13日付下間上野法眼御房宛武田信玄書状『戦武』−1733元亀3年元亀2年
8月13日付某宛武田信玄書状『戦武』−1734元亀3年元亀2年
9月26日付一色藤長宛武田信玄書状写『戦武』−1741元亀3年元亀2年
10月1日付勝興寺宛武田信玄・勝頼連署状『戦武』−1966元亀4年記述なし
5月13日付武田信玄宛足利義昭書状『戦武』−4049元亀4年元亀3年


3)柴氏による柴辻氏見解への対応

柴辻氏の批判に対し、反応したのは柴氏である。柴氏は、「長篠合戦再考  −その政治的背景と展開−」(『織豊期研究』12、2010年)の中で、次のように反論した。

  1. 『戦武』−1701・1702・1704の年次比定について。
    1. 軍事行動の主体が武田勝頼である。従って、勝頼が当主の時でしかない。また、『戦武』−1702で、勝頼が長篠攻略の意思を示している。

    2. 『戦武』−1701(表1−No.2)に、「畢竟織田上洛之上、大坂へ取懸候由条」(訳:織田信長は上洛の上、大坂本願寺を攻撃するとのことだ)とある。信長が本願寺を攻撃したのは、天正2年と天正3年の4月のみである。

    3. 天正3年に推定される、3月28日付武田中務太輔宛六角承禎(しょうてい)書状(『戦国遺文』六角氏編−993号。以下『戦六』と略す)・4月21日付本善寺宛六角義堯書状(『戦六』−994)で、勝頼の三河国出陣が、畿内情勢と関連したものであることが確認できる。天正2年では、畿内情勢とのかかわりが見られない。

    以上の点から、元亀2年及び天正2年の可能性も否定し、改めて、天正3年に年次比定した。

  2. 山家三方衆の帰属について。
    1. 元亀3年10月以降の武田氏の遠江・三河侵攻のなかで、山家三方衆との関係につき、「殊三州山家・濃州岩村属味方」(訳:特に三河国山家(三方衆)・美濃国岩村城が味方になり)と、朝倉義景に伝えている(『戦武』−1989)。

    2. 徳川家康も、元亀3年12月日付河合源三郎宛徳川家康判物写(『愛知県史』資料編11−846号)で、「今度三方依逆心」(訳:今度(山家)三方衆が離反したことにより)と記している。

    3. 元亀3年に従属したという認識が、『当代記』や『奥平家系』などの近世の史料でも確認できる。

    以上の点から、柴辻氏の元亀2年説を否定し、元亀3年7月以降であることを改めて指摘した。

  3. 『戦武』−1710の年次比定について。
    1. 足利義昭が織田信長に敵対するのは、元亀4年2月以降である。

    2. 武田氏と三好・松永両氏との交渉は、『戦武』−4067より、元亀4年3月の段階でも成立していない。

    以上の点から、元亀4年で妥当であると改めて指摘した。


また、柴氏は、天正3年の武田勝頼による三河侵攻の過程及び背景について考察し、以下のような見解を提示した。

  1. 侵攻ルートについては、「信濃国伊那郡より奥三河地域へ進軍し、足助城とその周辺を攻略した上で、作手から東三河地域へ向かい野田、吉田を経て、長篠に侵攻したと考える」(45頁)

  2. 武田勝頼自身は、信玄の三周忌法要のため、4月12日以降に甲府を出馬した。それまでの武田氏の侵攻は、「御先衆」(先遣隊)によって行われ、三河国作手において勝頼が合流、東三河に侵攻したと考えらえる。

  3. 武田勝頼の三河侵攻は、
    1. 畿内における将軍足利義昭に味方する勢力との連携。

    2. 徳川家の内紛(大岡弥四郎事件)への呼応。

    3. 武田信玄から引き継いだ支配圏の維持。

    のために行われたものである。

このように、柴氏は、柴辻氏の批判に反論し、2007年に発表した論文の正当性を主張した。


4)柴辻氏の再批判

柴氏の対応に対し、柴辻氏は、「元亀・天正初年間の武田・織田氏関係について」(『織豊期研究』13、2011年)を発表し、再度以下のように反論した。

  1. 元亀2年の遠江・三河両国侵攻の有無について。
    1. 『戦武』−1657(表1−No.1)に、「向小山抜本取出」とあること。
    2. 元亀2年3月4日付孕石元泰(はらみいしもとやす)宛武田信玄判物(『戦武』−1664)で、元泰の度々の戦功を賞していること。
    3. 『戦武』−1705に、「遠三表出馬」とあること。
    4. 元亀2年と推測される、菅沼定盈宛上杉謙信書状(『上越市史』別編1−1056号12))に、「甲衆出張之砌、於其表被抽戦功由感入候」(訳:「甲衆」が出張してきた際、「其表」において戦功を挙げたことに感心している。)とあり、この時に武田氏が野田城を攻めたことが分かること。

    5. 徳川方の記録に、元亀2年に遠江国高天神城が攻撃されたとの記載があること。

    6. 以上の点から、「元亀2年2月から5月にわたって、信玄が遠江から三河に出陣し、徳川家康を圧迫して、一定の戦果を上げていたことは確か」(3頁)であると述べ、元亀2年の遠江・三河両国侵攻はあった、と主張した。


  2. 『戦武』−1701・1702・1704の年次比定について13)
    1. 天正3年と決定づける裏付け文書がない。

    2. 天正2年の状況について、『戦武』−1701の内容と合致するものがある14)

    以上の点から、柴氏の天正3年を比定し、天正2年に年次比定すべきである、と主張した。また、天正2年時において、武田勝頼と畿内諸勢力との交渉関係はあったと述べ、畿内情勢とのかかわりが見られないとする柴氏の見解を否定した。


  3. 山家三方衆の帰属について。
    柴辻氏は、元亀3年7月以降とした柴氏の見解を、「この地域での武田氏支配が一定の安定性を迎えた後の結果であって、ここまでに至る双方の折衝があった」(7頁)と述べて否定した。
    ただ、具体的にいつ帰属したかについては記しておらず、元亀3年以前から、武田氏と奥平氏が関係を持っていた点を挙げるにとどまっている。


その他、柴氏の提示した、天正3年の武田勝頼による三河侵攻の過程及び背景については、以下のように述べた。

  1. 侵攻ルートについては、『戦武』−1701・1702・1704を天正3年としたことで、「無理な推論が多くなっている」(9頁)。『戦武』−1701・1702・1704は天正2年に比定すべきであり、このことから天正3年の侵攻ルートは、従来説通りである。

  2. 徳川家の内紛(大岡弥四郎事件)への呼応は、確かに勝頼出陣の一要因であった。

  3. 武田信玄から引き継いだ支配圏の維持についても、「認識においては大きな違いはない」(2頁)。




4.まとめと私見


1)論点の整理

以上、元亀2年・同3年の武田信玄による遠江・三河両国の侵攻について、研究史を整理した。ここで、改めて論点について整理しておく。

論点は多岐にわたるが、主要なものとして、

  1. 元亀2年の遠江・三河両国侵攻の有無について…鴨川・柴両氏:無、柴辻氏:有

  2. 『戦武』−1701・1702・1704の年次比定について…鴨川・柴両氏:天正3年、柴辻氏:天正2年

この2点であるといえる。

現在は、柴氏・柴辻氏による論争が繰り広げられており、容易に収まりそうもない。
この原因として、相手の主張の論拠を否定しきれていない点にあると、私は考える。互いの論拠は、ほぼ出尽くしており、このままでは議論が堂々巡りに陥りかねない。どちらの主張が正しいのか、論拠をしっかりと検証する必要がある。
以下、上記2点の論点について、柴氏・柴辻氏双方の論拠を検討し、私自身の考えを述べる。


2)元亀2年の遠江・三河両国侵攻の有無について

まずは、元亀2年の遠江・三河両国侵攻の有無について、鴨川・柴両氏及び柴辻氏の論拠は、以下の通りである。

主張論拠
鴨川・柴両氏『戦武』−1701・1702・1704の年次比定。『戦武』−1976の「三ヶ年之鬱憤」
柴辻氏『戦武』−1657・1664・1705、『上越市史』別編1−1056号、徳川方の記録

鴨川・柴両氏の論拠は、2点目の主要論点と重複するので、ここでは省略することとし、柴辻氏の論拠について検討する。『戦武』−1657・1664・1705については、重複するものもあるが、史料を別枠で掲載した。こちらを参照して欲しい(別ウィンドウで開きます)。

まず、『戦武』−1664・1705についてである。1664は、武田信玄が、孕石主水佑(もんどのすけ)に対し、格別の奉公と度々の戦功を賞し、知行を与えたものである。1705は、大坂本願寺の坊官下間頼廉(しもつま  らいれん)に対し、信玄自身の遠江・三河表に出馬につき、書状及び太刀が贈られてきたことへの礼と、遠江・三河・美濃3ヶ国を残す所なく平定したことを述べている。

柴辻氏は、これらを元亀2年の侵攻があった論拠の1つとしている。しかしながら、1664は、確かに孕石主水佑の戦功を賞したものだが、度々の戦功が、何の戦いに関するものか記されておらず、元亀2年の遠江・三河両国侵攻の戦功を賞したと決めつけることはできない。むしろ、永禄11年12月から続く今川・北条氏との戦い、いわゆる「駿州錯乱」の一連の合戦によるものを指すと考えるのが妥当である。実際、永禄12年(1569)12月6日に、蒲原城攻めの戦功により、駿河国内で知行を与えることを約束されている15)。1664は、この約束を履行したものとすべきであろう。

また、柴辻氏は、1705について、特に論拠を示さず、元亀2年に比定される史料として扱っているが、次の画像をごらんいただきたい。『戦国遺文』武田氏編の画像である(著作権の問題があると思いますが、あえて掲載しました)。

読点の場所に違いはあるが、『戦国遺文』の編者が付けたものであり、史料に読点はついていない。読点を除けば、全く同じ本文・差出・宛先であることが分かる。つまり、2つの史料は重複しており、1705が原本、2123が1705の写しなのである
そして、年次比定は、1705は元亀2年、2123は元亀4年(天正元年)とされ、さらに2123には、「本文書は、武田信玄没後に出されたものであろう」との注記もある。このことから、2つの史料は同一のものでありながら、年次比定が異なっており、どちらの年次比定が正しいのか、それとも両方とも違うのかを検証する必要があることが分かる。

では、1705は、何年に比定すべきであろうか。私は、1705と日付が近接し、「向遠三信玄出馬」「今度到遠参発向」という文言がある『戦武』−1709・1710(表1−No.5・No.6)と関連がある点、1705の本文の中に、遠江・三河両国だけでなく、美濃国まで平定したことが記されている点が、ポイントではないかと考える。
1709・1710は、鴨川・柴両氏(元亀4年)と、柴辻氏(元亀2年)とで意見が別れている。両史料の年次比定のポイントは、1710に記されている、足利義昭が織田信長に敵対行動をとったのがいつか、である。確かに、柴辻氏が述べているように、義昭と信長の関係は、元亀元年頃から悪化し始めていたが、「表面的には両者の提携関係は保たれていた」16)のであり、義昭が実際に行動として示したのは、元亀4年2月であった。このことから、1709・1710は、元亀4年に比定するべきと考える。
また、武田信玄が美濃国に兵を動かしたのは、元亀3年のみであり、それ以外では見られない。
以上の点から1705は、元亀4年に比定するべきと考える17)18)

次に、『上越市史』別編1−1056号である。従来から元亀2年に比定されてきた史料であるが、その年次比定に言及したのは、管見の限り、栗原修氏である。栗原氏は、1996年に発表した論文「上杉氏の外交と奏者  −対徳川氏交渉を中心として−」(『戦国史研究』32号)の中でこの史料に触れ、

ここにみえる「其口」とは、菅沼宛の追而書に「甲衆出張之砌」とあることから、武田氏が侵攻していた駿河・遠江を指しており、武田氏を牽制するため家康から謙信に対して軍事行動を求めたものであろう。とすれば武田氏の行動を考えると従来通り元亀2年に比定するのが妥当と考える(18頁)。

と述べている。
このことから、『上越市史』別編1−1056号の年次比定は、鴨川説登場以前の従来説が論拠になっていることが分かる。
鴨川・柴両氏によって、元亀2年の遠江・三河両国侵攻自体が論点になっている中で、この史料を、論拠の1つとして提示することはできない。年次比定の再検討を行い、元亀2年であることを改めて立証する必要がある19)

しかし、最後に残った1657については、前述(「1-2) 同時代史料の年次比定」)の通り、元亀2年の年次比定で、間違いない。1657に、「不図遠州江令出馬候事」や「向小山抜本取出事」と記されていることから、信玄が遠江国に出馬した可能性は、考えられるのである20)



以上、元亀2年の遠江・三河両国侵攻の有無について、柴辻氏の論拠を検討した。
その結果、柴辻氏の掲げた論拠のうち、

  1. 『戦武』−1664・1705については、論拠として成り立たないこと。

  2. 『上越市史』別編1−1056号は、元亀2年の年次比定で正しいか再検討する必要性があり、それまでは論拠とすることができないこと。

  3. 『戦武』−1657は、元亀2年の年次比定で正しく、信玄が遠江国に侵攻した可能性を示す論拠となりうること。

を明らかにした。

柴辻氏は、「元亀2年2月から5月にわたって、信玄が遠江から三河に出陣し、徳川家康を圧迫して、一定の戦果を上げていたことは確か」であると述べている21)。しかしながら、三河国への侵攻は確認できず、遠江国に侵攻した可能性があるにとどまった。さらに、北条氏との抗争は、深沢城開城後も一段落しておらず、例え遠江国に侵攻したとしても、「一定の戦果を上げていた」とは言い難い。
このように、鴨川・柴両氏の説にも、柴辻説にも全面賛同しない、いわば第3の見解となった。


3)『戦武』−1701・1702・1704の年次比定について

次に、『戦武』−1701・1702・1704の年次比定について、鴨川・柴両氏及び柴辻氏の論拠は、以下の通りである。

主張論拠
鴨川・柴両氏天正3年『当代記』天正3年の記事、『戦武』−1702で、勝頼が長篠攻略の意思を示している、『戦六』−993・994
柴辻氏天正2年『愛知県史』資料編11−951、『戦武』−2339、『譜牒余録』に収録されている西郷氏書き上げ

柴辻氏は、『戦武』−1701・1702・1704を、天正3年と決定づける裏付け文書がない、と述べているが22)、むしろ、天正2年ではなく、天正3年とせざるを得ない材料を、柴辻氏自身が提示しているように思う。

もし『戦武』−1701・1702・1704が天正2年のものであるならば、『戦武』−1701に「不図当表出馬、為始三州足助城、近辺之敵城或攻落、或自落」と記されているように、勝頼は、4月の段階で「当表」、つまり三河国にいることになる。
しかし、天正2年の武田氏が発給した文書の中に、三河国関係のものは、一切見当たらない。また、柴辻氏が論拠の1つとしている『戦武』−2339には、「但今夏信長向其口、動干戈候之条、為御申合遠州出張、永々在陣、至于去月下旬帰鞍、諸卒不得休其労候之間、出馬遅々無念至極候、雖然涯分催人衆候之条、近日尾・三表へ可及行」と記されている。
赤色の文字を見て欲しい。「遠州出張、永々在陣」と記されている。つまり、遠江国に長期在陣していたことを示している。三河国とは一言も書いていないのである。さらに、「近日尾・三表へ可及行(てだて)」と記されている。「近日」と書かれているが、柴辻氏はなぜか、「再度尾・三表に出陣する」と解釈している(5頁)。「近日」とは、「近日中に」という意味であり、「再度」とは解釈できない。まして、『戦武』−1701の内容と合致しているとは言い難い。

以上のことから、『戦武』−2339は、天正2年に三河国に出陣していないことを決定づける裏付け文書である、と言える。

また、『戦武』−2315〜2317・2320・2322・2323は、勝頼が「近年至駿・遠両州出陣」の労をねぎらっているが、ここにも三河国は載っていない。さらに、天正2年12月18日付飯尾弥四右衛門尉宛武田勝頼判物(『戦武』−2411)には、「法性院殿(武田信玄のこと)遠州御乱入之砌(みぎり)」とある。この史料も、遠江国のみ記されており、三河国は載っていない。
これらの史料も、天正2年に三河国に出陣していないことを示す傍証となろう23)


よって、『戦武』−1701・1702・1704は、天正3年に比定すべきである




5.おわりに


以上、元亀2年・同3年の武田信玄による遠江・三河両国の侵攻について、鴨川説が登場するまでの従来の見解と、それ以降の見解の変化について、整理した。
当該期の外交についてまでは、時間の都合上触れることができなかった。ただ、議論の軸になっている部分については、自分の意見が出せたかな、と思っている。

史料の年次比定は、難しいものですね・・・・。まだまだ、変更される史料が多く埋もれていると思います。

記述完了:2012年6月28日










1)鴨川氏・柴氏は、『家忠日記増補』元亀2年4月15日条の「信玄兵ヲ信州ヨリ発シテ、足助ノ城ヲ攻ント欲ス、城主鈴木喜三郎城ヲ避テ退ク」という記事を典拠としている、とする(鴨川達夫『武田信玄と勝頼 −文書にみる戦国大名の実像』岩波書店、2007年、175頁、及び柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』37、2007年、36頁)。

2)ただ、鴨川氏が新たな見解を出す前に、『戦武』−1701号や同−1704号の史料について、元亀2年以外の年次比定を行った者が皆無であったわけではない。柴辻氏の指摘によると、佐藤八郎氏は、著書『武田信玄とその周辺』(新人物往来社、1979年)の中で、天正3年と推定し、また、『足助町誌』(足助町誌編集委員会、1975年)は、天正2年と推定したという(柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』40、2009年、註4)。

3)理由として、9月26日付で越中国に届けた書状(『戦武』−1957)では、はっきり越後国に出馬すると述べているが、翌日の27日は、遠江・三河両国に向けて部隊を動かし始めていること、朝倉氏・本願寺の要請がなければ出陣しなかったこと、などを挙げている。

4)理由として、三方原合戦の後、家康に止めを刺さずに三河国に転進したことを挙げている。

5)理由として、『戦武』−1997号の記述を挙げる。

6)鴨川氏は、この著書の中で、他にも史料の年次比定の修正を行っている。
5月13日付武田信玄宛足利義昭書状(『戦武』−4049)は、従来の元亀3年から元亀4年に(183・184頁)、 5月17日付岡周防守宛武田信玄書状 (『戦武』−1710)・7月3日付某宛武田信玄書状 (『戦武』−1725) は、元亀2年から元亀4年に(188・189頁)、 10月1日付勝興寺宛武田信玄・勝頼連署状 (『戦武』−1966)は、元亀3年から元亀4年に(190頁)、それぞれ修正している。

7)理由として、

1.元亀4年に推定される、2月16日付東老軒宛武田信玄書状(『戦武』−2021)に、「朝倉氏及び大坂本願寺の要請により、遠江国に出馬した」と記されていること。

2.表1−No.6は、元亀4年に推定される、3月14日付武田信玄宛本願寺顕如書状案(『戦武』−4067)で、三好・松永両氏との交渉が「調略半」、つまり交渉中であったことから、元亀2年の段階で、武田・松永両氏間に外交関係が成立しておらず、元亀2年ではなく、元亀4年に年次比定できること。

3.将軍足利義昭は、織田信長と大坂本願寺の和睦仲介を、武田信玄に命じている(『戦武』−1733・1734・1741)。これは、従来、元亀2年のこととされてきたが、関連する『戦武』−4052が、元亀3年と推定できること、義昭が信長に敵対したのは、元亀4年2月以降であることから、元亀3年のこととすべきである。
このことから、元亀3年8・9月の段階で、義昭と信長が、敵対関係になかったことが分かる。

4.武田信玄は、侵攻の最中に、義昭との連携を求めたのであり、侵攻前から提携していないこと。これは、天正元年に推定される、12月28日付伊達輝宗宛織田信長朱印状(『織田信長文書の研究』上巻−430号)に、「武田・朝倉などの諸氏の働きかけにより、義昭が敵対した」と記されていること、5月13日付武田信玄宛足利義昭書状(『戦武』−4049)に、信玄から義昭に、忠節を約束した起請文が提出されたことが記されているが、これは、鴨川氏が述べるように、元亀3年ではなく元亀4年に年次比定されること。

ことを挙げている。

8)例えば、小笠原春香氏は、論文「武田氏の外交と戦争  −武田・織田同盟と足利義昭−」(柴辻俊六編『戦国大名武田氏の役と家臣』岩田書院、2011年)の中で、鴨川氏と柴氏の見解について触れ、徳川家康と敵対すれば、信長とも敵対する可能性が高くなるため、武田信玄は、家康だけでなく信長にも対抗する態勢を整える必要があった。元亀3年の織田・本願寺間の和睦仲介は、本願寺との同盟関係を強化するためであり、その点からみても、「信玄が遠江・三河侵攻を開始したのは元亀2年ではなく、今回の仲介が行われた後である元亀3年10月以降であると考えられる」(280頁)と述べている。

9)理由として、武田勝頼が、天正2年2月から6月にかけて、東美濃や遠江に侵攻し、明智城や高天神城を攻略していることなどを挙げている。

10)具体的には、表1−No.1に「遠州江出馬」「向小山抜本取出」とあること、5月6日付下間頼廉宛武田信玄書状(『戦武』−1705)に「遠三表出馬」とあることなどを挙げている。

11)柴辻氏は、織田信長と足利義昭の関係について、元亀元年正月23日の五箇条の条目頃より悪化し、元亀3年9月28日の信長の異見17箇条頃になると、「表面的には両者の提携関係は保たれていたが、実質的にはすでに破綻していたみるのが自然であろう」(7頁)と述べている。
これをふまえて、『戦武』−1710は、「信玄没後に花押で出されたものは、まず皆無だし、存在したとしても真偽が問題となる」(6頁)とし、『戦武』−4049についても、「一方的な判断であり、仮に信玄の死去をこの段階で義昭が知らなかったとしても、両者の関係からみて遅すぎる年代推定であるといえる」(7頁)と述べ、従来通り元亀2年で可とし、信長包囲網は構築されていた、とした。
さらに、柴氏が元亀3年と推定し直した、『戦武』−1733・1734についても、『戦武』−1741に、「上杉輝虎可被和与之旨、頻被 仰出候」(上杉輝虎と和与するよう、しきりに御命じになった)とあることから、元亀2年が適当としている(5頁)。

12)なお、『愛知県史』資料編11でも掲載されているが(773号)、追而書の書き方が異なり、また、『上越市史』は「内々其口無心元処」と記しているのに対し、『愛知県史』は「内々廿六日無心元処」と記しており、本文に異同がある。『上越市史』別編1の別冊に原本の写真が掲載されていたので、確認したところ、追而書の書き方は『愛知県史』が、本文の異同については『上越市史』が正しいことが分かった。ここに記して、注意を喚起する。

13)なお、柴辻氏は、検討にあたり、「天正2年の従来の年表では、4月28日に、勝頼は越中の一向一揆の将である杉浦氏に越後への出陣を要請し、6月に遠江に進攻して高天神城を攻略したというものであった。これらは前述した年未詳4通(筆者註:『戦武』1701〜1704)の書状の年号を、天正2年のものとみてのことであり、その検討が必要になってくる」(3頁)と述べている。
しかしながら、鴨川氏の著書が刊行されるまで、4通の書状の年号は、元亀2年が通説であったはずであり、なぜ「天正2年のものとみて」と述べたのか理解に苦しむ。

14)具体的には、

1.6月5日付佐治為平宛織田信長朱印状(『愛知県史』資料編11−951号)に、遠江国の在陣衆に兵粮を届けるよう命じている

2.8月24日付下間頼慶宛武田勝頼書状(『戦武』−2339)で、「去夏信長向其口、動干戈候之条、為御手合遠州出張、永々在陣、至于去月下旬帰鞍」といい、再度尾張・三河表に出陣すると伝えていること。

3.『譜牒余録』に収録されている西郷氏の書き上げに、『戦武』−1704と同じような内容のことが天正2年とされている。

点などを挙げている。

15)「孕石家文書」『戦武』−1479。

16)柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』40、2009年、7頁。

17)さらに言えば、柴辻氏は、「元亀2年正月の武田氏による深沢城の攻略をもって、対決は一段落していた」と述べているが(柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』40、2009年、2・3頁)、元亀2年正月の深沢城開城の段階で、北条氏との抗争に決着がついたわけではない。それ以降も、北条氏は、人改めを実施し(「武州文書」『静岡県史』資料編8−312号)、駿河国との国境にある足柄・河村城の普請を急がせる(「富士山本宮浅間大社文書」『静岡県史』資料編8−313号)など、信玄との戦いに備えようとしていた。実際、信玄は武蔵国に軍勢を派遣したようで、2月26日には同国源長寺に、6月12日には甘棠院に、それぞれ軍勢の濫妨狼藉を禁止する高札を与えており(「源長寺文書」『戦武』−1660、「甘棠院文書」『戦武』−1722)、北条氏側も、北条氏邦が高岸対馬守に対し、2月27日に「敵」が武蔵国石間谷に侵入してきた際の戦功を賞している(「高岸文書」『戦国遺文』後北条氏編−1470号)。この「敵」は、武田氏と考えられる。

このように、武田氏と北条氏との抗争は、引き続き続いており、とても遠江・三河・美濃国へ侵攻する余裕があったとは思えない。この点から考えてみても、1705を元亀2年に比定することはできない。

18)なお、丸島和洋氏が、1705を元亀3年と比定しているが(http://members3.jcom.home.ne.jp/kazu_maru/zakki2010.htmlの2010-09-20の部分)、「遠三表出馬、就本意芳墨(ほうぼく)、殊為祝儀太刀一腰到来」と(遠江・三河表に出馬、本意につき手紙、特に祝儀として太刀1腰到来し)とあることから、1705は、信玄が遠江・三河両国に出馬し、目的を達成後に、大坂本願寺から祝いの手紙と贈り物が来たことを受けて作られた書状であることが分かる。
となると、元亀3年に比定したのでは、元亀3年5月以前に信玄の遠江・三河両国出馬があったことになる。信玄の出馬は、同年10月以降のことであり、元亀3年1〜5月に出馬はなかった。また、元亀2年のこととを指すとすれば、本文に述べた通り、1705に遠江・三河両国だけでなく、美濃国まで平定したことが記されている点で、問題が生じる。

よって、私は、元亀3年の比定は成り立たないと考える。

19)年次比定を再検討し、私見を述べるべきところであるが、上杉氏と徳川氏の同盟の流れ全体を再検討する必要が生じるため、紙面及び時間の都合から、今回は省略した。

20)なお、柴氏が論拠とした、『戦武』−1976の「可散三ヶ年之鬱憤候」は、高天神城の開城という好機到来を受けて発言したものである。この文言から、元亀3年10月以前に、徳川氏との抗争がなかったことを示すことはできない。

21)「元亀・天正初年間の武田・織田氏関係について」(『織豊期研究』13、2011年、3頁。

22)註21論文、5頁。

23)『愛知県史』資料編11−951号は、遠江国の在陣衆に兵粮を届けるよう命じているものであるが、これも遠江国であって、三河国のことではない。よって、天正2年説の論拠として成立しない。



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