静岡県のお城静岡県の戦国時代>「河東一乱」の経過




「河東一乱」(かとういちらん)とは、天文6年(1536)から同14年(1545)に起こった、今川義元と北条氏綱・氏康との争いである。
「河東一乱」の名は、当時の文書に実際に記された言葉で、「河東」とは、富士川より東、という意味である。駿河国のうち、主に、富士川より東の地域で抗争があったことから、このように呼ばれた。

この「河東一乱」は、いわゆる「甲相駿三国同盟」に至るまでの、戦国大名今川氏、武田氏、後北条氏(北条氏)の関係の変化を考える上で、非常に重要な位置づけを担っている。今回は、この「河東一乱」の経過を詳細に追うこととした。






目次

  1. 研究史


  2. 「河東一乱」前の政治状況

    1. 東国の政治状況


    2. 花蔵の乱


  3. 「河東一乱」の経過

    1. 「河東一乱」の勃発


    2. 「河東一乱」の経過

      1. 後北条氏の駿河国侵攻(天文6年)


      2. 天文6年7月から同13年までの動向


        1. 北条氏の動き


        2. 武田氏の動き


        3. 今川氏の動き


      3. 今川義元の反撃(天文13年から14年)


        1. 天文13年の動向


        2. 天文14年の動向


  4. 「河東一乱」の影響


  5. まとめ






1.研究史


前述の通り、「河東一乱」は、重要な位置づけを担っている。そのため、多くの研究者によって、「河東一乱」の経過や要因、影響などが論じられてきた。

初めて、「河東一乱」の本格的な研究・考察を行ったのは、大久保俊昭氏である1)その後、有光友学氏2)前田利久氏3)黒田基樹氏4)久保田昌希氏5)などが、「河東一乱」の要因などについて述べている。
「河東一乱」の研究において、最も大きな論点となっているのは、「河東一乱」が起こった要因についてである。まずは、この論点について、下の表に整理した。


表1  「河東一乱」が起こった要因
研究者名 主張
大久保俊昭氏 北条氏の旧領回復が目的とする。今川・武田両氏の婚姻による駿河同盟の成立は、河東一乱の契機をつくったにすぎない(註1論文、4頁)。
有光友学氏 北条氏の旧領回復が目的、とする、大久保氏論文を踏襲(註2論文、11頁)。
前田利久氏 北条氏の旧領回復が目的とする。ただし、その願望は前年の「花蔵の乱」から現れており、それを察知した今川義元は、北条氏と決別し、武田氏と同盟を組むこととなったとする。(註3論文、29頁)。
黒田基樹氏 北条氏の旧領回復目的説に疑問。「乱(河東一乱)勃発以前に、北条氏の同地域に対する支配権の行使は全く確認されないことからみれば、直ちにその要因をそうした(筆者註:伊勢宗瑞の領有)「意識」に還元させるのは、事態の本質を失うおそれがある」(註4論文、411頁)。
久保田昌希氏 「花蔵の乱」において、北条氏は、乱の長期化が、関東での政治情勢に影響するため、短期決着を望んで過剰な軍事援助を行った。今川氏には、その過剰な軍事援助が不安にうつり、武田氏との同盟につながった(註5論文、129頁)。


表1を見ると、旧領回復説(大久保・有光・前田各氏)と、それを疑問視する黒田氏の見解、その他の見解(久保田氏)に三分される。
旧領回復説の最大の論拠となっているのは、「今川・後北条両氏の支配の不確実性と、後北条氏の自己勢力圏としての意識が天文6年の駿甲同盟を契機に表出したと考える」6)「父早雲ゆかりの旧領を回復したいという願望は「河東一乱」で具体化したが、筆者はこの旧領回復の意図は、さらに遡って花蔵の乱における義元救援行動に現れたと考える」7)、とあるように、伊勢宗瑞(北条早雲)が、今川氏親の家督継承の功績として、富士下方と興国寺城を与えられたことにある
「河東一乱」が起こった要因を考えていく際、伊勢宗瑞が、本当に富士下方と興国寺城を与えられたかどうかを検証する必要があろう。

ここでは、「河東一乱」前後の政治状況を整理した上で、「河東一乱」が起こった要因について、自分なりの見解を出せれば、と思う。




2.「河東一乱」前の政治状況


1)東国の政治状況

まずは、「河東一乱」直前(天文6年2月)の政治状況について、今川氏・武田氏・後北条氏を中心に見ていくこととする。「河東一乱」前の関係については、思い切り単純化して、図1にまとめた。

この頃の関東地方は、大まかに言えば、古河公方足利氏と、小弓公方足利氏が対立し、それに伴い、関東地方の諸氏がどちらかに与して争う……という状況であった。
伊勢宗瑞(北条早雲)の跡を継いだ伊勢氏綱は、北条の姓を名乗り、古河公方足利氏に与して、武蔵国へと進出していた。それに対し、頑強に抵抗したのが、武蔵国河越城に本拠を置く、扇谷上杉氏である。
扇谷上杉氏の当主上杉朝興は、小弓公方足利氏に与し、山内上杉氏と、甲斐国の武田信虎らと同盟を結び、さらに、房総半島の里見氏も味方とし、北条氏を包囲する戦略を採っていた。
しかし、天文2年(1533)、里見氏で家督争いが起こり、北条氏の支援を受けた里見義堯が家督を相続、上杉朝興は、北条氏包囲網の一翼を失った。さらに、小弓公方足利氏に与していた、上総国の真里谷武田氏も、翌天文3年から家督争いが始まり、彼らの支援も得られない状況になった。北条氏は、真里谷武田氏の家督争いにも参入し、親北条の武田信隆を支援し、小弓公方足利氏側の切り崩しを進めていった。

こうした状況の中、上杉朝興は、度々相模国に侵攻し、朝興を支援してきた、武田信虎との同盟強化を図る。天文2年、娘を、信虎の嫡子太郎(のちの武田晴信=信玄)のもとに嫁がせた。
この扇谷上杉氏と甲斐武田氏との同盟は強固なもので、武田信虎は、度々北条氏の領地に侵攻して、扇谷上杉氏を支援した。また、甲斐武田氏が北条氏の攻撃を受けると、扇谷上杉氏が北条氏の領地に侵攻し、後方を攪乱した8)。北条氏綱としては、両氏の行動にかなり手を焼いたものと思われる。

氏綱は、父伊勢宗瑞の時以来同盟関係にあった、今川氏との同盟を堅持することで、それに対処した。今川氏には、甲斐武田氏をけん制する役割を求めたものと考えられる。
天文4年8月、今川氏は、甲斐国に侵攻し、それに伴い、氏綱は援軍を派遣、武田信友や、小山田弾正らを討ち取る大勝をあげている9)翌年2月には、今川氏の当主今川氏輝を本拠小田原に招いて歌会を開き10)、今川氏との親密な関係を内外に示した。

しかし、天文5年3月、今川氏輝は突然他界する。そのため、今川氏では、承芳(今川義元)と恵探の家督争いが起こることとなる。いわゆる花蔵の乱である。


2)花蔵の乱

花蔵の乱は、天文5年4月末から5月の間に始まり、同年6月、恵探が自害することで終結した。乱の経過については、前田利久氏が整理しているので、そちらを参照していただきたい11)
ここでは、前田氏・久保田氏が、花蔵の乱を、甲斐武田氏と今川氏の同盟成立と、「河東一乱」を引き起こす遠因と位置付けていることから、花蔵の乱の性格と、「河東一乱」との関連について検討することとする。

○前田氏・久保田氏の見解

  • 前田氏
    北条氏綱による今川義元への援軍派遣には、今川氏の内紛に関与して、旧領の回復をはかろうとする動きがあった。その過剰な軍事行動が、北条氏との決別、翌年の今川・武田の同盟締結、北条氏との「河東一乱」という外交政策の大転換につながる(註3論文、30頁をもとに整理)。


  • 久保田氏
    「花蔵の乱」において、北条氏は、乱の長期化が、関東での政治情勢に影響するため、短期決着を望んで過剰な軍事援助を行った。今川氏には、その過剰な軍事援助が不安にうつり、外交政策を転換し、武田氏との同盟につながった(註5論文、129頁)。

両氏は、花蔵の乱に際し、北条氏が過剰な軍事援助を行ったことが「河東一乱」の遠因としている点で共通しているが、過剰な軍事援助の背景にあったものについては、見解が異なっている。すなわち、前田氏は旧領(伊勢宗瑞が与えられた興国寺城と富士下方十二郷)の回復とし、久保田氏は関東の政治情勢への影響としている。はたして、どちらの見解がより真実に近いのであろうか?

まず、前田氏の旧領回復説であるが、これは、「興国寺城」で述べた通り、信頼できる史料による裏付けがなく、この話の信憑性には疑問符を付けざるを得ない。つまり、興国寺城と富士下方十二郷が伊勢宗瑞に与えられたという話は、後世の創作である可能性高いのである。よって、前田氏の説は、根底から覆されかねない見解である。今後明確な裏付けが確認されない限り、私としては、前田氏の説を採用することはできない。

では、久保田氏の関東政治情勢説はどうであろうか?私は、久保田氏の説に一部賛成である。前述の通り、北条氏にとって、今川氏は最大の、そして最も期待できる同盟者であった。甲斐武田氏・扇谷上杉氏の対処、真里谷武田氏の内紛への介入など、多方面に手を伸ばしていた北条氏は、今川氏の内紛によって、援軍が得られなくなることに危機感を抱いたとしても不思議はない。内紛を短期に終結させれば、再び今川氏の力を借りることができるし、家督相続に多大な寄与をしたとして、今川氏への立場も強くなることができる。さらには、鶴岡八幡宮の造営のため、駿河国から材木を調達していたが、内紛によって調達できず、工程が遅れてしまっているという事情もあった12)

以上のように、今川氏の内紛への介入は、北条氏にとって必要であり、利益のあるものだったと考えられる。
しかし、この北条氏の援助を、今川義元が「過剰な軍事援助」として不安視したのだろうか?本当に今川氏は、北条氏と決別するつもりがあったのであろうか?この点について、久保田氏は、「対北条関係での政治的位置の低下」を最大の理由にあげているが(註5文献、128頁)、それを外交政策転換の最大の理由にすることに、私は納得できないでいる。次の項で、この点について考えてみたい。




2.「河東一乱」の経過


1)「河東一乱」の勃発

天文6年2月、北条氏綱は、駿河国に侵攻する。2月21日、氏綱は、大石寺・妙覚寺と、大平の星谷氏に制札を送り、軍勢の濫妨を禁止している13)
なぜ、北条氏は、それまで親密な関係であった今川氏と抗争を繰り広げることとなったのだろうか。それを推測する唯一の史料が、「勝山記」である。以下に原文を引用する。




此年弐月十日当国ノ屋形様ノ御息女様駿河ノ屋形様ノ御上ニナヲリ被食候、去程ニ相模ノ氏縄色々ノサマタケヲ被食候へ共、成リ不申候て、ツイニハ弓矢ニ成候て、駿河国ヲヲキツマテ焼キ被食候、
「勝山記(妙法寺記)」(『山梨県史』資料編6上−234頁)


【本文の現代語訳】
この年2月10日、当国(甲斐国)の武田信虎の御息女様が、駿河国の今川義元の妻となられた。その際、相模国の北条氏綱は、色々妨害を行ったが、成就せず、終いには戦争となり、駿河国を興津まで焼きなさった。



つまり、今川義元は、それまで対立関係にあった武田信虎と、婚姻関係を結び、友好関係になろうとしたのである。
それは、今川氏のそれまでの外交政策を、180度転換するものであった。北条氏にとって、今川氏と武田氏の同盟は、武田氏との抗争の際、今川氏の援軍を得られなくなることを意味する。駿河国に侵攻する前年の天文5年にも武田氏の相模侵攻を受けており 、扇谷上杉氏・武田氏に手を焼いていた北条氏にとって、これは受け入れがたいものであった。ゆえに、北条氏綱は、「色々ノサマタケ」をしたと思われる。
では、今川義元は、なぜ武田氏と同盟を結ぼうとしたのだろうか。ここで、改めて先学の研究を整理してみる。


大久保俊昭氏北条氏の旧領回復が目的とする。
有光友学氏北条氏の旧領回復が目的とする。
前田利久氏「花蔵の乱」における、北条氏の旧領回復の意図を目的とした「過剰な軍事援助」に不安を抱いたため。
黒田基樹氏北条氏の旧領回復目的説に疑問。
久保田昌希氏「花蔵の乱」での北条氏の過剰な軍事援助が不安にうつった。

北条氏の旧領回復説については、前項で「信頼できる史料による裏付けがなく、この話の信憑性には疑問符を付けざるを得ない。」と述べた。ゆえに、この説を採用することはできない。では、久保田氏の述べるように、北条氏の「過剰な軍事援助」が不安にうつったのであろうか。同氏は、「駿東域(駿河国東部)への進軍にとどまらず、深く乱の中心地をつく」行動を、「過剰な援軍」と述べている。
だが、果たして、「深く乱の中心地をつく」ことが、「過剰な援軍」と言えるかどうか。主観的な部分が多く、客観的な事例が挙げられていないため、どうにも納得できない部分がある。

では、なぜ今川義元は、武田氏と同盟を結んだのだろうか。自分なりに考えてみたい。



(※ここからは、根拠のうすーい、仮説にも満たない見解です。妄想しているなぁ、と思いながらお読みいただければ幸いです……)



○妄想満載な私見 〜今川義元は三河国に目を向けていた〜

まず、今川氏は、本気で北条氏と決別するつもりがあったのだろうか?北条氏と決別するには、時期・外交政策ともに、疑問点が残る。


北条氏への対処

  1. 花蔵の乱の終結から半年程度しか経ってないこと
  2. 天文5年6月に乱が終結して、乱後の処理を行っている最中である14)。とても、北条氏と対立する体制が整っているとは言い難い。

  3. 武田氏以外の関東の反北条方の諸氏に連絡を取った形跡がないこと
  4. 史料が残ってない、と言われればそれまでなのだが、北条氏と決別するなら、武田氏だけでなく、扇谷上杉氏などにも連絡を取り、包囲網を形成するのが妥当だろう。しかし、その形跡が全く見られない。(※この点については、『快元僧都記』の記事がありますので、その検証が完了するまで、消しておきます。20101230)

今川義元は、北条氏の軍事力と実力を、花蔵の乱で認知しているはずである。「過剰な援軍」に不安を抱く割には、北条氏への対策に手抜きがあるように思える。今川義元に、北条氏と決別する決意は、私にはうかがえない。


三河国への対処

  1. 「河東一乱」中の三河国への関与
  2. 今川義元は、当主就任直後から、三河国に強い関心を持っていた節がある。天文6年5月、松平広忠は、岡崎城に復帰したが、それには今川義元の援助があったとされる15)。また、天文7年11月には、同国吉田神社に社頭を寄進している16)天文12年10月には、東観音寺に禁制を与え、軍勢の乱暴狼藉を禁止しており、軍勢を三河国に派遣したことがうかがえる17)

  3. 「河東一乱」直後の三河国侵攻
  4. 天文14年11月に長久保城が開城し、「河東一乱」が終結するが、その半年後の天文15年6月には、三河国に軍勢を派遣し、今橋城などを攻撃している。北条氏との和睦後の三河国侵攻の早さは、義元の三河国への関心の高さを示すものではないか。

「河東一乱」の最中にも三河国に関与し、乱の終結後にはすぐに同国に侵攻するところから、今川義元は、三河国に強い関心を抱いていたように思える。



以上をふまえて、今川義元は、なぜ武田氏と同盟を結んだのか?私は、「三河国に本格的に進出するため」という考えを出してみたい。
三河国に本格的に侵攻できたのは、武田氏と北条氏と、同盟あるいは和睦によって、両氏のために戦力を割く必要がなくなったからである。
義元は、北条氏と決別するつもりはなく、北条氏との同盟は堅持しながら、武田氏と婚姻を結び、三河国に侵攻するために、後顧の憂いを断ちたかったのではないだろうか?しかし、北条氏は、関東の情勢に影響がでるため、武田氏との婚姻に反対したが、それに配慮せずに武田氏と婚姻を結んだため、報復として駿河国に軍を派遣したのではないか?



(※以上、根拠のうすーいお話でした……)



2)「河東一乱」の経過

ここでは、「河東一乱」を大きく3期に分け、当時の史料をもとに経過をたどっていきたいと思います。


@後北条氏の駿河国侵攻(天文6年)




天文6年(1537)2月、今川義元と武田信虎の間に婚姻関係が結ばれたことを契機に、北条氏綱は軍を駿河国に派遣した。後北条軍は、富士川を越え、興津まで放火している(前掲「勝山記」)。また、大石寺・妙覚寺などに禁制を与えて軍勢の濫妨を禁止した(表2−No.1)。  北条氏綱自身は、2月26日に出陣、3月初めには吉原に到着したようで、快元より贈られた巻数に返事を送っている(表2−No.3・5・6)。
 図2を見てもわかるように、北条氏は、わずか1ヶ月あまりで、富士川のすぐ傍に位置する吉原まで進出している。駿河・遠江両国を領有する今川氏にしては、実にあっけなく進出を許したように思える。なぜ、このような状況になったのだろうか?


まず1点目は、葛山氏の存在である。
葛山氏は、河東地域のかなりの部分を支配していた領主である。今川氏に与してはいたが、独自の支配を行っており、半ば自立した領主ともいえた。
その葛山氏が、「河東一乱」の際、北条氏に与したのである。それは、河東地域の多くが、労せずして味方になることを意味する。そのため、北条氏は、駿河国への侵攻が容易にできたのであった18)

2点目は、遠江国及び三河国の状況の変化である。以下の史料をご覧いただきたい。



遠州本意之上、於彼国五百貫文之地可進置候、然者井伊与有御談合、早々御行簡要候、巨細使者可被申候、恐々謹言
北条氏綱判
、、、、、、三月廿九日
、、、、、、、、、奥平九七[八カ]郎殿
、、、、、、、、、、、、、御宿所
出典:「松平家奥平家古文書写」(表2−No.8)


【本文の現代語訳】
遠江国を平定の上、同国において500貫文の土地を与えること。ついては、井伊氏と協力し、早急の軍事行動をすることが簡要であること。子細は使者が申すこと。



この史料は、天文6年のものと推定されている奥平九七郎(定勝)に宛てた北条氏綱の書状である。
この史料から、奥平氏(本拠地は三河国)や、「井伊与有御談合」(井伊と御談合有り)とあるように、井伊氏も北条氏に与していたことが分かる。

このように、北条氏綱は、遠江国の今川氏に与する諸領主を離反させ、今川義元の後背をおびやかしていた。奥平氏・井伊氏だけでなく、見付に本拠を持つ堀越氏も後北条氏に与しており(表2−No.10)、義元は、その対策にも乗り出さなければならなかった。そのため、北条氏対策に全力を注ぐごとができなかった。
それでも、今川義元は、同年4月、天野虎景・景義兄弟に堀越氏を攻撃させ、6月14日、北条軍と合戦を行った。しかし、結果は、北条氏綱の勝利に終わり、富士川以東の奪還はならなかった(表2−No.14)。

なお、この「河東一乱」の際に見られた、駿河・遠江両国の諸氏の離反は、外部からの大きな力が加わった際、離反が相次ぐという今川氏の家臣団の不安定さと、その統制の限界を露呈したものであった。その後、今川氏は家臣団統制を強化していくが、根本的な解決は達成できないまま、永禄12年(1569)、武田信玄の駿河国侵攻と徳川家康の遠江侵攻の際、多くの家臣が離反し、滅亡してしまうのである。



A天文6年7月から同12年までの動向

○「河東一乱」の時期区分

「河東一乱」は、「第一次河東一乱」と、「第二次河東一乱」の、大きく2つの時期に区分されている。無料で使用できるネット上の百科事典「Wikipedia」でもそのようにされており、2時期に区分することは、特に疑われてはいないようだ19)

では、「第一次河東一乱」と「第二次河東一乱」の始期と終期は、いつであろうか?『静岡県史』通史編中世によれば、「第一次河東一乱」は、天文6年2月(北条氏侵攻開始)から天文8年7月(北条氏の蒲原城攻撃)、「第二次河東一乱」は、天文14年7月(今川氏の反撃開始)から同年11月(長久保城開城)までとしている。河東地域において、今川義元あるいは北条氏綱・氏康が駿河国に出陣し、戦闘が繰り広げられた時期で区分しているようだ。
しかし、この時期区分には疑問がある。例えば、「第二次河東一乱」は、天文14年7月を始期としているが、『東国紀行』に「駿豆再乱によりて」という文言があるように、すでに天文13年の段階で、今川・北条両氏は抗争状態にあった。にもかかわらず、これを「河東一乱」の時期から外すのは、問題があると考える。
また、天文8年から同14年までの約7年間、なぜ今川義元は、河東地域を放置していたのだろうか?『静岡県史』通史編中世では、「遠江国の経営に専念」したと述べているが20)、それだけでは根拠として薄すぎるだろう。

以上のことから、次の点について再検討する必要性があると考える。


  1. 「第一次河東一乱」と「第二次河東一乱」の時期区分について
  2. 今川義元が河東地域を放置していた理由について

ここでは、今川氏が北条氏との合戦に敗れた直後の天文6年7月から天文12年までの、今川・北条・武田各氏の動向を整理し、上記2点の問題について考えてみる。なお、天文13年・14年は、「第二次河東一乱」との関わりが深いので、事項で整理する。
また、天文7年から同12年までの今川・北条・武田各氏の動向は、下表に簡単に整理した。(別ウィンドウで開くようになっています。この表を見ながら本文を読むといいかも・・・・??)



○北条氏の動き

今川氏との合戦に勝利し、河東地域を占領した北条氏綱は、天文6年7月11日、武蔵国に出陣し、扇谷上杉氏の本拠河越城を攻略した21)。この年4月、扇谷上杉氏の当主上杉朝興が死去していたこともあり、北条氏の攻勢を防ぐことができなかったのである。
北条氏は、河越城攻略の余勢を駆って、同国松山城を攻撃、城を守る難波田氏の軍勢30余人を討ち取った22)。これにより、武蔵国における北条氏の優位性は決定的となる。
しかし、房総半島の情勢は芳しくなく、同年5月の真里谷武田氏の内紛介入に失敗し、里見氏も敵対するに及び、鶴岡八幡宮造営に必要な材木の調達に苦心することとなった23)

天文7年に入ってまもない正月晦日、氏綱は相模国玉縄城に着城し、2月2日に下総国葛西城を攻略した。また、武蔵国岩付城に向かい兵を動かし、近辺をことごとく放火している24)10月には下総国国府台において小弓公方足利義明と合戦し勝利、小弓公方は滅亡した25)
なお、武田氏との抗争は止んでおらず、この年5月16日と10月12日に、甲斐国吉田宿を攻撃している26)。吉田宿の位置から見て、駿河国から侵攻し攻撃を受けたと考えられる。つまり、北条氏本隊が甲斐国に侵攻したのではなく、駿河国にいる北条氏方の諸氏に攻撃をさせた可能性が高い。実際、10月12日の攻撃は、北条氏の家臣垪和氏と駿河国の須走氏が行ったものであった。


天文8年は、北条氏が関東方面で大規模な軍事行動を行った形跡はない。一方、駿河方面には軍事行動を行ったらしく、7月29日、相模国松原大明神に与えた北条氏綱の判物に、「今度駿州動之上、令祈願処、無相違以本意願、令帰陣畢」(今度駿河国を攻撃するので、勝利を祈願したところ、祈願通りなり、帰陣した)と記されている27)。具体的にどのような行動を取ったかは分からないが、戦勝を祈願したところから見ても、かなり本格的な軍事行動であったと考えられる28)
また、武田氏との抗争も前年に続き続いていたようだ。

天文9年になると、北条氏は、再び関東方面に兵を向ける。この年4月に、安房国妙本寺に軍勢の濫妨狼藉を禁止している29)ことから、房総半島に出陣したようだ。9月に氏綱が玉縄城に着城している30)ことから、この時期には帰陣したと考えられる(房総半島からとは限らないが…)。
11月には、鶴岡八幡宮造営が落成し、遷宮の儀式が行われ、北条氏綱ら一門の人々が参加した31)

天文10年、北条氏の躍進を支えた北条氏綱が病になり、7月に死去した。氏康がその跡を継いだが、その隙をついて、扇谷上杉氏が攻勢に出た。11月には河越城で合戦が行われた32)が、北条氏は撃退に成功している。
翌天文11年には、6月頃に相模国で抗争があったらしく、無量光寺に対して陣取を禁止する制札を与えている33)この時相模国に攻撃をしかけたのは、北条氏討伐の願文を奉納した34)、山内上杉氏であろうか。天文10・11年の北条氏は、扇谷・山内両上杉氏の攻撃を受け、守勢にまわっていた。
天文12年は、特にどこかへ侵攻したり、攻撃を受けた記録は残っていない。


このように、天文6年7月以降、北条氏は、天文8年を除き、基本的に関東方面に兵を動かしており、駿河国に本格的に出兵した形跡はない(小競り合いはあったかもしれないが)。武田氏とは天文8年まで抗争を続けていたようだが、「河東一乱」で服属した河東地域の諸氏を派遣したもので、北条氏の本隊を動かしたものではなかったと思われる。また、甲斐国における戦闘であり、駿河国におけるものではない。
とすると、「第一次河東一乱」の時期について、北条氏の本格的な侵攻がなかった天文6年7月から天文7年(または天文8年初頭?)までを入れるべきか、という問題が起きないだろうか?



○武田氏の動き

今川義元と婚姻関係を結んだ武田氏は、天文6年、北条氏が河東地域に侵攻すると、御宿氏を案内者として駿河国須走口に出陣した35)が、北条氏の攻勢を食い止めることはできず、まもなく甲府に帰陣した。この年10月には、駿府から来訪した冷泉為和を迎え、歌会が催されている36)

天文7年には、前述の通り、甲斐国吉田宿が北条方の攻撃を受けた。翌8年も、詳細な記録は残っていないが、「此ノ年モ未タ両国ノ取合不ス止マ」とあることから、北条氏との争いは続いていたようだ37)
天文9年より、武田氏は信濃国への進出を開始する。この年4月には佐久郡、天文10年5月には小県郡に軍勢を派遣し、戦果をあげた。6月、信虎は駿府に追放され、晴信が新たな当主の座に就くが、諏訪氏を滅ぼし、高遠氏と抗争するなど、信濃国進出という戦略方針は継承された38)

このように、武田氏は、天文8年まで北条氏と抗争した後、天文9年から信濃国への進出を開始、その後信濃国の攻略に集中している。北条氏とは、天文9年以降抗争した形跡がないことから、天文8年の段階で和睦したのではないだろうか。



○今川氏の動き

北条氏との合戦に敗北した今川氏は、河東地域を北条氏に占領されたまま天文7年を迎える。北条氏は、小弓公方足利義明と戦うため、主力を下総国方面に向けていた。今川氏としては、この隙をついて河東地域に攻め入りたいところであったが、富士郡の諸氏も北条氏に与する状態であり39)、結局動けずに終わる。
ただ、天文7年5月18日付の天野景泰宛今川義元判物では、「天野七郎三郎知行分、是者在陣為兵粮宛行畢」とあり、天野景泰が在陣の兵粮として知行を与えられていることから40)、天文7年も抗争が続いていたようだ。場所は不明だが、河東地域か、天野氏の本領がある遠江国か。後述するが、遠江国が不安定な情勢であったと考えられることから、後者の可能性が高いと考えられる。

天文8年になると、前述の通り、再び北条氏の攻撃を受けた。7月に蒲原城が攻撃を受けたことを記した資料が残っているが41)、いずれも検討の余地がある資料で、本当に攻撃を受けたかどうかは疑問が残る。ただ、8月に北条氏綱が松原大明神に戦勝を報告していることから考えて、実際に北条氏の攻撃は行われ、今川氏にとって芳しくない結果であったことがうかがえる。それは、この年閏6月朔日付の松井貞宗宛今川義元書状に、「其地在陣昼夜辛労無是非候、時分柄雖可為迷惑候、両国安危此時候間、各被相談一途遂本意候者快然候、猶々如水魚互談合肝要候」とあり42)、「両国」が安全となるか危険となるかはこの時なので、各々と水魚のように密に連携するよう求めていることからもうかがえる。義元自身、この時期かなり危機感を持っていたことがうかがえる。
また、北条氏の攻撃が終わった直後の天文8年9月晦日付松井貞宗宛今川義元判物には、次のように記されている。

遠江国久津部郷之事

右、当郷除諸給分、一円令扶助畢、息郷八郎為近習可令在府之由、尤以神妙也、但蔭山与次方岡部又次郎給分者、於国静謐之上者、以別所可充行于彼両人、其時五拾貫拾人扶持分、重而可令扶助者也、仍如件
天文八己亥年九月晦日、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、治部大輔(花押)
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、松井兵庫助殿


「土佐国蠧簡集残編三」『静岡県史』資料編7−1507号
【本文の現代語訳】
遠江国久津部郷について。
これは、久津部郷の家臣の私領を除き、全て扶助するものである。息子郷八郎が、近習として駿府に滞在しているとのこと、神妙である。
ただし、蔭山与次・岡部又次郎の私領は、国が平穏になった上は、別の地をもって両人に与えること。その時、50貫文・10人分の扶持を、再度扶助すること。

この史料でポイントとなるのは、「於国静謐之上者」という文言である。「国が平穏になった上は」という仮定の話をしているということは、この判物が発給された時、平穏ではなかったことを示している。このことから、今川氏の分国では、北条氏の撤退後も、依然緊張状態が続いていたことが分かる43)

天文9年・10年は、目立った動きは見られない。しかしながら、天文9年は、残存する11通の今川義元判物・朱印状のうち10通が、同10年は全7通のうち全てが遠江国の関係と、遠江国関係の判物・朱印状の発給数が多いことが注目される。この時期、今川義元は、『静岡県史』通史編中世で述べられているように、遠江国の経営に集中していたことがうかがえる。逆に言えば、経営に集中しなければならないほど、遠江国は不安定な状態であったといえよう。

天文11年になると、残存する14通の今川義元判物・朱印状のうち、8通が駿河国関係のものと、駿河国関係の発給文書が増え始める。また、富士郡にある大石寺に禁制を、村山浅間神社へ判物を発給していることが注目される44)それまで北条氏の占領下にあった河東地域に対する、初と言ってもよい有効性のある判物であった45)。河東地域への発給文書は、天文12年には5通に増えている。また、同年10月には三河国に出兵したことがうかがえ、同国東観音寺に禁制を与え、軍勢の濫妨狼藉を禁止している46)

以上のことから見て、今川氏は、天文6年の北条氏河東地域侵攻以後、不安定な情勢が続いていたと考えられる。それは、河東地域だけでなく、今川氏の分国全体に及んだ大規模なものであった。特に、発給文書数の多さから、遠江国がかなり混乱していたのではなかろうか。そのため、北条氏が関東に主力を向けていたにも関わらず、混乱収束のために時間が経過してしまったのではないかと考えられる。
混乱が収束するのは、河東地域への発給文書が見られる天文11年以降だろうか。少なくとも、天文12年には、三河国に出兵している余裕があることから、この時には完全に収束させていたとみてよいだろう。



B今川義元の反撃(天文13年から14年)

「「河東一乱」の時期区分」で述べたように、「第二次河東一乱」は、天文14年7月を始期としているが、『東国紀行』に「駿豆再乱によりて」という文言があるように、すでに天文13年の段階で、今川・北条両氏は抗争状態にあった。では、具体的にどの時期から抗争状態にあったのだろうか。詳しく見ていくこととする。


○天文13年の動向

天文13年正月、北条氏家臣桑原盛正が甲斐国に赴き、『甲陽日記(高白斎記)』の作者及び向山又七郎と対談し、条目を受け取った47)。これについて、『武田氏年表』は、「四面楚歌の状態を打開するために、北条氏の他国衆でもあった小山田氏を通じて、氏康が講和の可能性を探ってきたのではなかろうか。盛正に渡した条目は、武田晴信が示した和睦条件であろう」と述べている48)。この記事でそこまで推測するのは、やや話を飛躍させすぎな感もあるが、北条氏と武田氏が接点を持ったことは注目できる。

その後、今川氏に特別な動きは見られないが、10月になると、北条氏との抗争が始まっていたようで、10月28日、今川義元は佐野孫四郎に対し、以下のような朱印状を発給している。

今度敵取懸処、抽而走廻、殊忠節、棟別拾間停止、諸役免許畢、弥可抽忠功之状如件
天文十三甲辰年拾月廿八日、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、佐野孫四郎殿


「佐野家蔵文書」『静岡県史』資料編7−1698号

この朱印状で、今川義元は、今度の「敵」の攻撃に対する佐野孫四郎の忠節を賞し、棟別10間分を停止し、諸役を免除することを記している。
ここでいう「敵」とは誰のことであろうか。この時期、今川氏は対外侵攻を行っていない。また、佐野孫四郎は、富士郡に居住する佐野氏の一族である。以上のことを考えると、「敵」とは、北条氏またはそれに与する者であるといえる。このことから、従来、「第二次河東一乱」は、天文14年7月を始期としていたが、その9ヶ月前の天文13年10月の段階で、すでに抗争が繰り広げられていたことが分かる。

このような状況の中、同年12月、連歌師宗牧が来訪した。遠江国引間に到着した宗牧は、引間城主飯尾豊前守乗連が、「駿・豆再乱」により、駿河国蒲原城の当番を勤めているため留守にしていることを知る。宗牧は、蒲原城に立ち寄ることとなるが、その途中、さらに東に向かうべく、北条氏の家臣で、今川氏との最前線に位置する吉原城の城主狩野介及び松田弥次郎のもとへ、朝比奈三郎兵衛尉が飛脚を送り、宗牧の通行許可を求めている。
蒲原城に到着した宗牧は、まず風呂に入ったあと、吉原城からの返事を見て、通行許可を得られたことに安堵した。夜になり「本城」(中心の曲輪)に入り、原六郎・二俣昌長といった遠江国に本拠を置く諸氏の歓待を受けた。
その後、蒲原城から吉原城に移ることになるのだが、この部分は、『東国紀行』の記述を引用しよう。

吉原へふねの事ハ、二三日以前より用意させられたり、(中略)、食過て豊前守(筆者註:飯尾乗連)そのほか浜まて送、田子浦とは此辺にやなとたつねたれハ、清見か関のこなた六里はかりのほと、みな田子のうらとなむ、舟にのるとて、
   打出て思ひもをくれかへりみる山ハ富士のね田子の浦なミ
昨日より風ハなきたれと、まことにたゝぬ日もなき浦波に、こきいつるほともめつらし、敵地への送なれハ、警固船兵具いれて、人数あまた乗たり、一里はかり過たれハ、吉原の城もまちかくみえたり、この舟を見つけて、足軽うち出、事あやまちもしつへきけしきなれハ、十四五町此方の磯にをしよせ、荷物おろさせ、松田弥四郎申陣所へ人つかはしたれは、案内者をこせ、みなと川のわたりし船さしよせて待たり、やかて出むかハれ誘引あり、かりそめの陣所なから、こゝろ有さまなるしつらひなり、窓ひらかせ、富士みせられたり、


『東国紀行』『静岡県史』資料編7−1716号

『東国紀行』の記述から、今川氏は蒲原城、北条氏は吉原城を最前線の拠点とし、睨み合いの状態であったことが分かる。北条氏の兵が、宗牧の乗る舟を見つけて迫った際、その殺気立った様子を、「事あやまちもしつへきけしきなれは」と宗牧が記していることからも、一触即発の緊張感が伝わってくる。
このことからみても、「第二次河東一乱」は、すでに始まっていたと考えるのが自然ではないだろうか。

○天文14年の動向

天文14年になると、対立が続く今川氏・北条氏を和睦させようとする動きが出てくる。
3月、京都の聖護院門跡道増(しょうごいんもんぜきどうぞう)が駿河国に下向した。道増は、同月26日に駿府に滞在したことがうかがえ、「東国へ御下向」の餞別として、冷泉為和と駿府の臨済寺において和歌を詠んでいる49)4月2日、道増は甲府に到着し50)その後、7月まで道増の動向は明らかではないが、北条氏のもとに赴き、帰路についたと考えられる。この時の来訪の目的は、後奈良天皇が書写した般若心経を各国の一宮に奉納する伝達者としてのものだった。道増は甲斐国と伊豆国の担当だったのである。この時、今川氏と北条氏の和睦を斡旋する役割も帯びていた可能性もあるが、推測の域をでない51)

7月、道増は再び駿河国に下向し、今川義元との歌会に出席した52)
この時の来訪は、『為和集』に「内々東と和与御扱之由也」と記されているように、今川氏と北条氏を和睦させることを明確な目的としていた。この歌会の後、道増は北条氏のもとへ赴き、和睦交渉を行うが、失敗に終わった53)
これを機に、今川義元は7月24日に出陣、善得寺に着陣する54)。善得寺は、現在の静岡県富士市今泉のあたりと推定されている(平凡社『静岡県の地名』)。だとすれば、義元は、北条氏の拠点である吉原城の目と鼻の先に布陣したことになる。

8月、義元は吉原城への攻撃を開始した55)。これに対し、北条氏は、当主氏康自ら出陣して吉原城に入り、防戦の指揮をとった56)。8月16日、今井狐橋において今川氏と北条氏が合戦に及び、義元は天野虎景・景泰の両名に感状を与え、その戦功を賞している57)
なお、武田晴信も駿河国に出陣し、今川義元と対面、義元に誓詞を提出したのち、甲府へ帰陣している58)。(和睦の要請というよりは、今回の攻撃に対し、両家の間に何らかの取り決めが成立したと考えるのが妥当)。

9月になると、北条氏の劣勢が明らかになってくる。9月16日、北条氏は吉原城を放棄し、三島に退くとともに、武田晴信に書状を送り、今川氏との和睦を模索し始める59)。2ヶ月前には和睦交渉を蹴った北条氏であったが、和睦の道を探らざるを得ない状況になっていたのである。
一方、今川義元は、武田晴信と対面しながらも、北条氏への攻撃の手を緩めることなく、軍を長久保城に派遣、9月下旬から攻撃を開始する60)。さらには、山内上杉氏が北条氏の拠点である武蔵国河越城を包囲したことで、北条氏は二正面作戦を強いられることとなった。

苦境に立たされた北条氏康は、武田氏を仲介とする和睦交渉を続け、10月15日には一定の結論を見いだすことに成功する61)。20日、武田氏(と今川氏も?)は、北条軍の籠る長久保城の見分に赴き、御宿氏の自害を見届けた。これにより、22日には停戦が成立、和睦交渉は詰めの段階に入る62)
29日、武田氏が提示した3つの条件に今川氏が同意、和睦が成立する。11月6日、北条軍は長久保城を出城、撤退を開始した63)。和睦は成立したものの、実際は北条氏の敗北であった。今川氏は河東地域の平定に成功したのである。




4.「河東一乱」の影響


「河東一乱」の影響を最も大きく受けたのは、言うまでもなく今川氏であった。河東地域から北条氏を撤退させると、今川氏は同地域の領国経営を開始する。今川義元は、数々の判物を発給して支配強化に乗り出すが、特に注目されるのが、興国寺城の構築である。今川義元は、河東地域に拠点城を築き、周辺の諸氏に在番役を賦課することで、同地域を支配し、諸氏と主従関係を結んでいることを目に見える形で周囲に示したのだった64)
これ以降、興国寺城は河東地域の拠点城として、長く使用されることとなる。

武田氏や北条氏は、「河東一乱」が終結したことで、従来進めていた戦略に立ち戻ることができた。これ以降、武田氏は信濃国の平定を再開し、北条氏は河越城で山内・扇谷上杉両氏の軍を破った後、そのまま関東の平定に乗り出していく。それは、今川氏も同様であり、「河東一乱」終結後間もない天文15年6月、軍を三河国に派遣し、以後同国の平定に全力を注ぎはじめた。
今川・武田・北条3氏ともに、それぞれ従来推し進めていた戦略に立ち戻ったのである。そして、それをさらに円滑に進めていくために、後に三国同盟が結ばれることとなる。




5.まとめ


ここまで、「河東一乱」を整理した上で述べることは、以下の2点である。


○「河東一乱」の規模

「河東一乱」は、富士川以東で起こった局地的な争乱を指すが、実際はそうではなく、今川氏の分国である駿河・遠江全体に波及したものであった。とりわけ遠江国の混乱は長期化したため、今川義元はこの鎮静に長い時間を費やすこととなり、反撃が遅れる要因となった。


○「河東一乱」の時期

「河東一乱」の時期区分について、狭義の「河東一乱」と広義の「河東一乱」に分けて時期区分を考えるべきではないだろうか。

【狭義の「河東一乱」】
狭義の「河東一乱」は、今川氏または北条氏の当主が富士川以東に出陣したことを指標として区分する。

1期:天文6年2月から同年6月
2期:天文8年中頃(8月頃が終期だろうか)
3期:天文14年7月から同年11月

ただし、2期を設定してよいかについては、再度検討する必要があるだろう。


【広義の「河東一乱」】
広義の「河東一乱」は、富士川以東に限らず、北条氏の侵攻の影響による抗争・混乱を指標として区分する。

1期:天文6年2月から天文10年頃
2期:天文13年10月頃から天文14年11月

ただし、1期の終期・2期の始期については、推測の部分が大きく、再度検討する必要があるだろう。




記述終了:2011年4月17日





1)大久保俊昭「「河東一乱」をめぐって」(『戦国史研究』2、1981年。のち大久保著『戦国期今川氏の領域と支配』第1節第2章、2008年再録)

2)有光友学「戦国期葛山氏の軍事的位置 −その今川氏家臣説の検討を通じて−」(『地方史静岡』14、1986年)

3)前田利久「花蔵の乱の再評価」(『地方史静岡』19、1991年)

4)黒田基樹「駿河葛山氏と北条氏」(黒田基樹『戦国大名領国の支配構造』岩田書院、1997年)

5)久保田昌希「今川氏と後北条氏 −駿甲相同盟の政治的前提−」(『戦国期静岡の研究』清文堂、2001年。のち久保田著『戦国大名今川氏と領国支配』第1篇第2章、2005年再録)

6)註1論文、4頁。

7)註3論文、29頁。

8)「快元僧都記」天文2年9月条など。

9)「快元僧都記」天文4年8月条、「勝山記(妙法寺記)」天文4年条。

10)「為和集」(『静岡県史』資料編7−1364号)。

11)註3文献。

12)「快元僧都記」天文5年5月10日条。

13)「大石寺文書」「妙覚寺文書」「星谷文書」(『静岡県史』資料編7−1423〜1425)

14)「孕石文書」(『静史』7−1416号)、「井出孝史氏所蔵文書」(『静史』7−1414号)など

15)『戦国人名辞典』松平広忠項(新人物往来社、2006年、917頁)

16)「吉田神社所蔵」(『静岡県史』資料編7−1478号)。愛知県史資料編10では未掲載か。もしや要検討文書か……?

17)「東観音寺文書」(『愛知県史』資料編10−1495号)

18)この点については、黒田基樹氏も指摘している。氏は、駿河国における北条氏の勢力圏が、葛山氏の支配領域に全く一致していることを指摘し、「北条氏の河東地域領有とはいっても、その実態は葛山氏の北条氏への従属によって成されたものである」と述べている(黒田基樹「駿河葛山氏と北条氏」『戦国大名領国の支配構造』岩田書院、1997年、403頁)。

19)ただし、これは研究者による区分である。当時の人々はどう認識していたのだろうか?少なくとも、今川義元は、天文6年の北条氏侵攻のことを「河東一乱」と認識していたようだ。
それは、「河東一乱」後に出された史料に、「丁酉年河東乱入之刻」(『静岡県史』資料編7−1854)・「酉年之河東一乱以来」(同−1984)・「去丁酉年河東乱入砌」(同上−2685)と記されていることからうかがえる。

20)有光友学「今川義元と駿遠の武士たち」(『静岡県史』通史編中世第3章第3篇、805頁)。

21)『快元僧都記』(『歴代残闕日記』23、243頁)

22)『快元僧都記』(『歴代残闕日記』23、244頁)

23)『快元僧都記』(『歴代残闕日記』23、241頁)

24)『快元僧都記』(『歴代残闕日記』23、247頁)

25)『快元僧都記』(『歴代残闕日記』23、252・253頁)

26)「勝山記」(『山梨県史』資料編6中世3上、234頁)

27)「西光寺文書」(『静岡県史』資料編7−1502号)

28)なお、同月付で、蒲原城における戦功を賞した今川義元の感状が残されている(「甲州古文書集」など『静岡県史』資料編7−1499〜1501)が、文言を見る限り、後世の創作である可能性が高い。

29)「安房妙本寺文書」(『戦国遺文』後北条氏編−171号)

30)『快元僧都記』(『歴代残闕日記』23、272頁)

31)『快元僧都記』(『歴代残闕日記』23、279頁)

32)「大藤文書」など(『戦国遺文』後北条氏編−198〜203)

33)「無量光寺文書」(『戦国遺文』後北条氏編−213・214号)

34)「鹿島神宮文書」(『新編埼玉県史』資料編6−158号)

35)「勝山記」(『山梨県史』資料編6中世3上、234頁)

36)冷泉家時雨亭文庫編『冷泉家時雨亭叢書 第76巻 為和・政為詠草集』朝日新聞社、2007年、252頁

37)「勝山記」(『山梨県史』資料編6中世3上、234・235頁)

38)「勝山記」(『山梨県史』資料編6中世3上、235頁)など

39)天文8年正月18日付井出駒若宛今川義元判物(『静岡県史』資料編7−1487号)に、「於富士各雖属敵方」(富士に於いて各敵方に属すと雖も)とある。

40)『静岡県史』資料編7−1466号

41)天文8年7月10日付小嶋又八郎宛今川義元感状写など(『静岡県史』資料編7−1499〜1501号)

42)『静岡県史』資料編7−1497号

43)なお、天文8年5月12日付祝田の喜三郎宛井伊直盛判物写には、「今度就手出候、抽於走舞仕者、十貫文之分為給分可扶持者也」とあり、今度の「手出」につき、格別の働きをすれば、知行を与えることを約している。
「手出」とは、「相手に争いなどをしかけること」(大辞泉)であり、祝田は、遠江国引佐郡にある地名である。このことからも、遠江国内で争いがあったことが言えるのではないだろうか。

44)天文11年6月12日付大石寺宛今川義元禁制(『静岡県史』資料編7−1583号)及び同年9月4日付按察使房宛今川義元朱印状(『静岡県史』資料編7−1593号)

45)天文8年にも河東地域に2通の判物が発給されているが(註39の史料及び天文8年12月11日付某宛今川義元判物写[『静岡県史』資料編7−1514号]、前者は周辺の諸氏が北条氏に与している状況の中発給したものであり、後者も、在所を捨て馳せ参じた忠節を賞して発給したものである。文書の効果がすぐに発揮されたとは考えにくい。

46)天文12年10月15日付東観音寺宛今川義元禁制(『愛知県史』資料編10−1656号)

47)「甲陽日記(高白斎記)」(『山梨県史』資料編6中世3上、87頁)

48)武田氏研究会編『武田氏年表』高志書院、2010年、76頁

49)冷泉家時雨亭文庫編『冷泉家時雨亭叢書 第76巻 為和・政為詠草集』朝日新聞社、2007年、305頁。
なお、書陵部本為和集には、葛山氏広(『静岡県史』資料編7−1202号)・同氏元(『静岡県史』資料編7−1844号)・太原雪斎(『静岡県史』資料編7−1767号)の出自に関する朱筆の書入れがあるが、後世の加筆であることが明らかになった。

50)「甲陽日記(高白斎記)」』(『山梨県史』資料編6中世3上、88頁)

51)武田氏研究会編『武田氏年表』高志書院、2010年、79頁

52)冷泉家時雨亭文庫編『冷泉家時雨亭叢書 第76巻 為和・政為詠草集』朝日新聞社、2007年、306頁

53)註52と同じ

54)註52と同じ

55)「勝山記」(『山梨県史』資料編6中世3上、237頁)

56)註55と同じ

57)『静岡県史』資料編7では天文24年に比定しているが、この時期河東地域で抗争が見られない点、天野小四郎が天文24年9月に三河国大給山中筋での合戦に参加している(『静岡県史』資料編7−2323号)という時期的な問題の2点から、天文24年の比定は間違いであると言える。天文14年の吉原城攻撃に関連したものと位置付けるの妥当である。

58)「甲陽日記(高白斎記)」』(『山梨県史』資料編6中世3上、88頁)

59)三島退却については、「勝山記」(『山梨県史』資料編6中世3上、237頁)、武田晴信への書状送付については、「甲陽日記(高白斎記)」』(『山梨県史』資料編6中世3上、88頁)

60)「甲陽日記(高白斎記)」』(『山梨県史』資料編6中世3上、89頁)

61)註60と同じ

62)註60と同じ。なお、『武田氏年表』では、「甲陽日記(高白斎記)」の「御宿生害」について、「長久保城を見分にいった御宿某が生涯する不測の事態が生じているが」と述べている(註51文献、81頁)。しかし、この解釈の仕方はあまりにも不自然である。長久保城を守備していた御宿氏が、武田氏(及び今川氏)の立ち合いのもと自害したと解釈するのが自然ではないだろうか。

63)註60と同じ

64)天文18年2月28日真如寺宛今川義元判物写(『静岡県史』資料編7−1922号)。興国寺城については、別に整理しています(「興国寺城」参照)。







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