お城一覧

静岡県の戦国時代について

静岡県は、今川義元・北条氏康・武田信玄・徳川家康といった、戦国時代を代表する大名たちが、領土を広げるために争った場所です。そのため、他大名の侵入を防ぐために、多くの城が造られ、その城を攻略するために、合戦が繰り広げられました。
有力な戦国大名の抗争の舞台となった城周辺の政治状況の変化、争いの起こりと結末を把握することは、戦国時代の城を語る上で欠かせません。

このページでは、戦国時代、静岡県で起こった戦国大名同士の抗争を、テーマごとに分類し、抗争の経過を詳しくたどっています。



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出来事概要
今川氏親の遠江国平定 今川義元の父氏親による遠江国平定。今川氏の発展を考えるうえで欠かせない出来事ですが、氏親が独断で行ったのか、はたまた将軍家の意向なのか……?
「河東一乱」の経過 「河東一乱」は、家督相続後まもない今川義元が初めて体験した対外戦争。富士川より東のいわゆる「河東」という地域で繰り広げられた、今川氏と北条氏による争いです。
乱は今川氏の領国全域に広まったものの、それが今川氏の支配体制の強化と、今川・北条・武田による三国同盟締結、今川氏の三河国侵攻へと繋がっていきます。
時系列に沿って、「河東一乱」を整理してみました。
2つの内乱
「三州錯乱」と「遠州錯乱」
今川義元が桶狭間で討死したあと、三河国ついで遠江国で反今川の狼煙が上がります。
今川氏滅亡の序曲となった2つの乱を整理します。
「駿州錯乱」 武田信玄の同盟破棄により、今川・北条・武田による三国同盟は崩壊し、西に徳川家康、東に武田信玄と戦うことになった義元の子今川氏真。滅亡の危機にある今川氏に対し北条氏は……?
今川氏滅亡の経過を整理します。
武田信玄の遠江・三河侵攻 武田信玄の元亀2年(1571)遠江・三河侵攻は本当にあったのか!?最新の学説に学界が揺れた!!
Wikipediaでも簡単にしか触れていない最新の研究成果を、当サイトが詳しく整理します。

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