静岡県のお城静岡県のお城一覧>深沢城




■ 深沢城データ ■
所在地御殿場市深沢
お城が機能した時期16世紀中期から後期
お城の持ち主北条氏、武田氏
遺構土塁、堀
オススメ度★★★☆☆


地図はこちら⇒




目次

  1. お城の歴史


  2. お城のつくり


  3. 発掘調査成果


  4. まとめ






1.お城の歴史


1)深沢城の位置

深沢城は、御殿場市深沢字本城に位置し、抜川と馬伏川に挟まれた場所に立地する。
眼前には足柄街道(現在の県道78号線)が通っており、約2km西には、旧鎌倉往還(現在の国道138号線)が通っている。このことから、深沢城は、駿河国から足柄峠を越えて相模国に出る道を塞ぐとともに、篭坂峠(かごさかとうげを越えて甲斐国へ赴くための橋頭堡ともなっていたことが分かる。
文字通り、交通の要衝に位置していた、というわけだ。


2)深沢城の歴史

全国各地に数万ある、と言われる戦国時代のお城の多くは、誰が造ったか、いつ造ったか、全く分かっていない。
しかしながら、深沢城は、築城から廃城までの変遷をたどることができる、珍しい城である。以下、深沢城の歴史について記述する。

@深沢城の築城

『日本城郭大系』1)に、深沢城の築城についての記述がある。簡単にまとめると、以下のようになる。

16世紀初め、今川氏によって築かれたと言われているが、確かな史料的根拠はない。
しかし、今川氏による築城以前に、この地に城があったことは明らかであり、伊礼正雄氏によれば、深沢氏が屋敷を構えていたという。


深沢城を扱ったホームページのほとんどは、この『日本城郭大系』の記述をもとにしている。それどころか、研究者も、この記述をそのまま引用しているほどである。2)
しかしながら、この点は、黒田基樹氏によってすでに否定されている。3)つまり、永禄12年(1569)6月、北条氏が発給した書状に、「号深沢新地」(深沢と号す新地)4)とあることから、深沢城は、永禄12年に築かれたことが明らかになっているのである。
まずは、この点について注意を喚起しておきたい。

A深沢城の歴史

永禄11年12月、武田信玄(たけだしんげんは、駿河国に侵攻し、今川氏真(いまがわうじざねを駿府から追いやった。いわゆる「駿州錯乱」である。(詳しくは「駿州錯乱」を参照)。これにより、今川氏は事実上滅亡し、駿河国は武田信玄の領地となった。
しかしながら、信玄は、簡単に駿河国を得たわけではなかった。その最大の要因が、北条氏康(ほうじょううじやすの駿河国出陣である。
北条氏康は、今川氏真を助けるため、駿河国へ出陣し、またたく間に駿府以東の拠点を押さえた。そのため、信玄は、いったん甲斐国に戻り、体勢を立て直している。永禄12年4月のことである。

信玄の撤退後、北条氏は、遠江国懸川城(かけがわじょうにいた氏真を呼び寄せるとともに、信玄に対する防衛ラインの整備に乗り出した。この際築かれたのが深沢城である。
深沢城は、富士兵部少輔(ふじひょうぶのしょう(のちの富士信忠)が守る大宮城とともに、信玄の侵攻を食い止める最前線の拠点であった。そのため、北条氏は、一族の北条綱成(ほうじょうつなしげ、重臣の松田憲秀(まつだのりひでを守備につかせている。5)

6月、武田信玄は再び駿河国に侵攻し、16日、深沢城を攻撃した。この時は、綱成らの防戦により撃退したが、信玄は矛先を大宮城に転じ、7月、同城を攻略。防衛ラインを破り、駿河国への侵入を果たすと、12月には蒲原城(かんばらじょうを攻略した。
この時点で、戦況は、完全に信玄有利となったといえる。不利になった北条氏は、領内の防衛のため、ふだん課役しない寺社領にまで人足を賦課し、城の普請などにあたらせた。また、深沢城についても、依然北条綱成に守備させ、深沢城の城米4俵について、臨時徴発した人足をもって届けるよう命じている。6)

しかし、武田信玄の攻勢を止めることはできず、元亀元年(1570)8月には、伊豆国韮山城にまで武田軍の侵入を許してしまい、12月には、再び深沢城を攻撃されてしまう。
危機感を抱いた北条氏康・氏政(うじまさは、援軍を送るとともに、武蔵吉良氏の家臣である江戸氏らに出陣を命じた。この時発給した判物には、「於今度之一戦者、当方之安危候間」(今度の戦いは、当家が安全になるか、危険になるかがかかっているので)と記されており7)、深沢城がいかに重要視されていたかをうかがい知ることができる。
北条氏政自身も、深沢城救援のため、翌年正月10日に小田原城を出陣したが、武田軍の攻撃により、残るは「一曲輪」のみとなり、さらに、「金鑿」(かなほり。鉱山の穴を掘る人たち)によって、深沢城の「本城外張」(ほんじょうとばり)まで掘り崩されたのを受け、北条綱成は堪え切れず、正月16日、ついに開城してしまった8)
氏政自身は、「敵陣五里之内」(武田軍から5里の距離)にまで迫っていたのに、綱成が開城してしまったことについて、「綱成は救援を待たず、自分勝手に開城してしまった。私が開城するよう求めたわけでは決してない」と記している9)

一方、武田信玄は、攻略した深沢城を修復し、論功行賞(ろんこうこうしょうを行った上、矛先を北条氏から徳川氏に変えた。そのため、これ以降、駿河国における武田・北条両氏の抗争はほとんどみられなくなる(深沢城攻略後も、信玄は北条氏攻撃を主としていた。「元亀2年(1571)・同3年の武田信玄による遠江・三河侵攻について」参照。2012年8月8日追記)。
しかしながら、北条氏は、信玄の相模国への侵攻の可能性を非常に危惧しており、相模国との国境にある足柄城(あしがらじょう、さらには、河村城の普請を行い、新たな防衛ラインの構築にかかっていた10)

長く続いた軍事緊張も、同年10月、北条氏康が死去したことにより一気に緩和し、翌年正月には、武田・北条両氏に和睦が成立した。これにより、駿河国東部は軍事緊張から解放されたが、深沢城は依然武田氏の拠点として機能していたらしい。天正3年12月、甲斐国石橋の新五左衛門尉は、「深沢」へ赴くにつき、来年の税を免除されている11)。この「深沢」は深沢城を指すと推測されている。

このまま平穏な状態が長く続くかと思われたが、天正7年(1579)8月、武田勝頼(たけだかつよりが沼津に城を築いたことにより、再び緊張状態に入る(この時の流れは、「天正年間の武田・北条両氏の抗争」を参照)。
深沢城は、沼津城とともに対北条氏の拠点として利用されたが、天正10年3月1日、武田勝頼が織田信長の侵攻を受け、甲斐国に撤退したため、武田軍は守備を放棄、深沢城は北条氏の手に渡った12)

その後、駿河国は徳川氏に渡ったが、深沢城が利用された形跡はなく、そのまま廃城になったと考えれる。





2.お城のつくり


@深沢城の案内板について

深沢城は、現地に案内板が出ている(右上の図)。それによると、深沢城は、北から順に、「本丸」、「二の丸」、「三の丸」の3つの平坦地(曲輪)から成り、他には、「食糧庫跡」、「下馬留」、「馬出し」、「二鶴様式の堀跡」などの名が案内板に記されている。
しかしながら、「○○丸」という言葉は、戦国時代の東日本では、使用されていないし、「食糧庫跡」や「下馬留」と記されている場所も、何らかの伝承があったのかもしれないが、確証があるわけではない。 つまり、案内板は、正しい案内板としての機能を果たしていないのである。これでは、見学に来た方々に誤解を生じさせる原因になりかねない。今後、深沢城を整備していく上で、案内板の造り替えも検討していただければ、と思う。

その整備についてであるが、御殿場市教育委員会は、深沢城跡の基本整備検討報告書を作成し、今後の整備の方針を定めており、その際、深沢城の測量図が作成された(以下、「測量図」と省略する)13)。それをもとに筆者が加筆・修正したのが右下の図である。深沢城の遺構については、こちらの方が正確なので、右下の図をご覧いただければと思う。
なお、これ以降、堀などの場所を説明する際には、右下の図で記された番号を用いることとする。



A深沢城の構成


※深沢城の写真・動画集はこちらから。

深沢城の案内板では、深沢城が、「本丸」、「二の丸」、「三の丸」の主に3つの平坦地と堀から構成されているように図示されている。これは、現地での踏査を研究の軸とする、城の研究者(縄張り研究者とも)も同じ見解を持っており、『図説中世城郭事典』第2巻(新人物往来社、1987年、184・185頁)では、深沢城が3つの平坦地(平坦地@〜B)からなっていると述べている。


現地の案内板





しかしながら、「測量図」では、主に4つの平坦地から構成されているとの、異なった見解を提示している(平坦地@〜C)。
その根拠となるのが、平坦地Cの南を囲む土塁の存在である(右下の図の土塁??のところ)。実際に現地へ行って見てみたが、確かに土塁のように土が盛られてはいる箇所はあった。しかし、「測量図」のように広範にわたって残っているようには見受けられなかった。
果たして、平坦地Cは、深沢城の一部とみるかどうか。土塁が戦国時代に造られたものかどうかが、判断のポイントとなると考えられる。

もう1つ、異なった見解を示しているものがある。17世紀後半に作成されたと推測されている、浅野文庫蔵「諸国古城之図」である。
浅野文庫蔵「諸国古城之図」は、江戸時代前期の時点で、すでに城として機能していないもの(廃城となったもの)を記録したもので、東北から九州まで、合計177箇所が図化されている。
この中に、深沢城の図が残されている。それを見ると、主に2つの平坦地から構成されていることが分かる(※図を載せたいが、著作権があるので……すみません)。

このように、深沢城の構成については、3つとする見解と、4つとする見解と、2つとする見解の、3つの見解があることが分かる。
いずれが正しいかについては、「発掘調査成果」で述べることとし、ここでは論点の整理のみにとどめておく。




B深沢城の防御意識


深沢城は、どの方向からの敵の攻撃に対処するように造られていたのだろうか?
これについては、以下の3点から、南からの攻撃に対処するよう造られていたことが分かる。

  1. 深沢城の南側に足柄街道が通っていること。
  2. 平坦地Aの南側のみに土塁が設けられていること。土塁は、敵の侵攻方向に向けて設けられることが多い。
  3. 平坦地Bへの入口は、馬出で防御を固めているのに対し、平坦地@には馬出がないこと。



C丸馬出について


深沢城には、今も3ヶ所の馬出(うまだし(馬出@〜B)が残っている。
「馬出」とは、城の入口の防御と出撃のために、入口前の堀の対岸に築いた小さな平坦地を指す。「馬出」の中でも、形が半円形のものについては、特に「丸馬出」と名付けている。

この丸馬出は、戦国大名武田氏の城によく見られるものとして有名になっており、その研究史も厚い14)
また、丸馬出の技術は、近世になっても継承されており、静岡県内でも、藤枝市の田中城に導入されていることで知られる。


深沢城馬出Aの現在の様子



私は、丸馬出が設けられた要因について、以下の3点を考えている。

  1. 敵の攻撃を食い止める効果が期待できること。
  2. 費用が安い!そして造るのも簡単なこと。
  3. 少ない人数で守ることができること。

丸馬出を設けている城の多くは、比高が低く、城の外側に広い自然の平地が続いている点に特徴があると思う。つまり、山を登るわけでもなく、労せず攻めてきた敵を食い止めるのに、非常に高い効果が期待できたことを示している。丸馬出を細かく細かく分類している研究者がいらっしゃるようだが、丸馬出を設けた根本的な要因を、まずは明確にするべきだと思う。



その点で一つ私見を申し上げれば、費用が安く、設置に時間がかからない、という点は見逃せないのではないだろうか?
丸馬出の建築作業は、頑丈な門や石垣を築く作業に比べれば、非常に簡単である。半円状の平坦地を造成し、それを囲むように堀を掘ればいいのだから。もともと平坦な地形であれば、半円状に堀を掘ればできあがりである。門も石垣も必要ない。時間もかからず、掘るだけだから、費用も抑えられる。
近世の城に丸馬出の技術が残ったのは、このような費用対効果に優れている点が、要因の一つとしてあげられるのではないだろうか?


深沢城9号堀。
発掘調査の結果、馬出の前方をめぐる堀であることが確認された。


丸馬出を設けている戦国期の城が、敵対する戦国大名の境界線の城に多く設けられている点も、その証左となると考えられる。戦場付近の百姓たちは、山へ逃げるか、近くの城に逃げるため、普請のための人員補充ができないのだから。

最後に、丸馬出を設ける要因としてあげられるのは、死角が減り、少ない兵力で守ることができる点である。これはすでに小和田哲男氏が指摘しており、高田徹氏もそれに賛同しているので、詳しくはそちらを参照していただきたい15)

しかし、研究史を見ると、色々な意見がありますね。それについては、ここで取り上げるスペースがないので、「丸馬出の研究成果について」をごらんください。



D城外施設について


丸馬出など、城内の構造に目を向きがちであるが、城外はどうなっていたのであろうか?
注目すべきなのは、9号堀の約150m南側に土塁が残っていることである。この土塁が戦国時代の土塁であったならば、土塁の内側にも何らかの施設があったことになる。
この点は、『図説中世城郭事典』でも指摘されている(184頁)。

また、平坦地Aから馬伏川を挟んだ対岸には、「根古屋(ねごや」の地名が残っている。これは、浅野文庫蔵「諸国古城之図」にも、同じ箇所に「昔此(この)所根小屋」と記されている。
このことから、深沢城に根小屋があったと考えられる。
「諸国古城之図」には、深沢城の南、深沢村と記された場所にも、「昔此所根小屋」の記述がある。深沢城の周囲には、足軽などが滞在する場所が整えられていたようだ。







3.発掘調査成果


@2002年度発掘調査


深沢城は、現在まで、2002年度から2004年度の3年間と、2006年度に、発掘調査が実施された。
2006年に報告書が刊行されているが、遺物の出土データがない、遺物の写真がボケている、遺構の図に等高線が入っていない、など、非常に問題が多い報告書となっている。
このような制約があるため、遺物の成果が記述できない事態となった。あらかじめご了承願いたい。

深沢城図の拡大図はこちら(別ウィンドウで開きます)。



2002年度の発掘では、平坦地@及び周辺部が調査された。
調査は、地権者の意向により、トレンチによる調査となった。トレンチの配置は、図1の通りである(TR1−AからTR4−Bまで。TRとはトレンチの略)。


成果

遺構は、TR2−D、2−E、2−FとTR3−Cで、溝やピット(穴)が検出された。検出した遺構は、深沢城に伴うものである可能性があるという(註13、4頁)。それ以外のトレンチは、遺構を検出しなかった。
遺物は、ほとんど出土していない。

遺構が検出されたのは、平坦地@の南側のみであり、遺物もほとんど出土しなかった。このことから、報告書は、「深沢城跡の主要郭ではない。また、何らかの防御施設や仮設の施設は存在したであろうが、常時使用されていた曲輪とは考えにくい。」と述べている(註13、51頁)。

調査面積が狭く、今回の調査をもって、平坦地@の性格を考察するのは、やや性急かもしれない。しかし、報告書が述べている理由から、私も、平坦地@は、深沢城の城内(城外としてはまだ分からないが…)として機能しなかったと考える。


図1 2002年度調査トレンチ配置図
(註13報告書5頁より引用)



A2003年度発掘調査


2003年度の発掘では、平坦地Aが調査された。昨年度同様、トレンチとテストピット(図2のTPは、テストピットの略)による調査のため、調査面積は狭い。


成果

平坦地Aの調査では、TP01とTR09を除く全てで遺構が検出された。検出された主な遺構は、石列・ピット(穴)、溝である。
特に注目されるのは、TP05で、石列が検出されたことである。石列は、北西から南東方向に、幅約40cmの浅い溝の両側に並べて構築されていた。報告書は、出土した遺物及び層位から、石列は戦国時代の遺構であると述べている(註13、22頁)。面積が狭いため、石列の性格は不明であるが、これにより、平坦地Aには、何らかの建物が存在していた可能性が非常に高くなった。


図2 2003年度調査トレンチ配置図
(註13報告書24頁より引用)


出土遺物も多く、貿易陶磁器や中世陶器が多数出土した。報告書によれば、これら出土遺物の年代は、15世紀後半から16世紀前半に比定される、とする(註13、52頁)。さらに、古墳時代から奈良時代の土器も出土しており、深沢城が築城される以前から、この地に人々が生活していたことが明らかとなった。

2002年度の調査及び2003年度の調査から、深沢城の中心は、平坦地Aであることが、ほぼ断定されたといってよい。
なお、出土した遺物の年代は、北条氏と武田氏が争った、16世紀中期よりも古い年代のものであるとのことだったが、報告書には、遺物の検討が全く記されてなく、なぜその年代に比定したのか、全く理由が書かれていない。
出土した遺物を再度検討し、改めて年代比定をするべきと考える。




B2004年度発掘調査


2004年度の発掘では、平坦地B及び周辺の堀(8号堀・9号堀)が調査された。この調査も、トレンチによるものである。


成果

この調査によって、8号堀・9号堀がV字型の薬研堀であったことが判明した。また、「測量図」では、9号堀の北に2号土塁があると図示しているが(深沢城図の赤色の斜線部分)、調査の結果、TR16で堀が検出され、10号堀が、9号堀の北までめぐっていたことが明らかになった(深沢城図で、水色の斜線部分)。
この結果、赤色の斜線部分は、土塁ではなく馬出であることが分かった。

なお、今回判明した馬出については、昭和33年に実施された実測図16)と、昭和47年の伊禮正雄氏の踏査図17)に図示されていた。現況遺構を踏査する研究(いわゆる縄張り研究)は、色々と問題点はあるものの、発掘調査を行う上で無視はできない。発掘調査を行う際の指針として、今後もこうした研究は、重要な位置づけを与えられるであろう。


図3 2004年度調査トレンチ配置図
(註13報告書42頁を一部改変)



C2006年度調査


2006年度の調査では、市道改修工事に伴い、3号土塁の試掘調査が実施された。


成果

報告書によれば、「近現代の混入物は無かったが、積極的に土塁と判断されるような土塁体積は見られなかった」と述べ、江戸時代に開削された用水路の掘削土(穴を掘った土)や川浚い(川底の砂を除去し、川の流れを確保する作業のこと)で排出された土砂を積み上げた結果、形成されたものと推測している(註13、51頁)。

報告書の内容をそのまま信頼すれば、3号土塁は戦国時代のものではなかったことになる。このことから、平坦地Cは、遮蔽物がなにもないただの更地、ということになり、報告書も、「広い意味では城域に入っていたと思われるが常時使用されていた曲輪とは考えがたい」と述べている(註13、51頁)。


3号土塁とされた部分(竹藪となっているところが土塁とされた)




4.まとめ


以上、文献史料による調査及び発掘による調査によって判明した、深沢城の様子は、以下のとおりである。

  1. 深沢城は、今川氏もしくは深沢氏が築城したものではなく、永禄12年、北条氏が構築したものと考えられること。


  2. 発掘調査の結果、平坦地@と平坦地Cは、城内として機能した可能性は低いこと。これにより、深沢城は、主に平坦地AとBから構成されていたと考えられること。


  3. 主な平坦地が2つであること、馬出の位置が符合することから、浅野文庫蔵「諸国古城之図」の深沢城の図は、かなり正確に描かれているものと考えられること。よって、今後深沢城を考察する際、「諸国古城之図」を基礎資料として扱うべきと考える。


深沢城の大部分は、私有地となっており、発掘調査の実施にも大きな制限が加えられた。そのため、深沢城の全容を解明するには、なお多くの時間が必要となるといえる。

しかしながら、私有地となり、耕作地となったにも関わらず、深沢城には、丸馬出や堀がはっきりと残っている。
ただ、私有地になったことで、本格的な発掘調査ができないことを非難するのではない。むしろ、ここまで綺麗に遺構を保存してくれた、地権者の方々に感謝するべきだと思う。
戦国時代の城を一般の人に認知してもらうために、今後も、深沢城の整備と保存をお願いしたい。




2009年12月30日





1)『日本城郭大系 静岡県』(新人物往来社、1979年、53・54頁)

2)例えば、『陶磁器から見る 静岡県の中世社会 資料編』(菊川シンポ実行委、2005年)には、「深沢城は今川氏の創築といわれているが、たしかな史料はない。」と書かれている(264頁)。

3)黒田基樹「北条氏の駿河防衛と諸城」(『武田氏研究』17、1996年、22頁)。

4)(永禄12年)6月16日付由良成繁宛北条氏政書状(「上杉家文書」『上越市史』別編1−767号)。

5)註4の史料より。

6)(永禄13年)2月15日付北条家朱印状(「二宮康氏所蔵文書」『静岡県史』資料編8‐164号)。

7)元亀2年正月7日付荒川善左衛門尉宛北条氏政判物写(「新編会津風土記四」『静岡県史』資料編8‐288号)。

8)(元亀2年)正月20日付上杉輝虎・同景虎宛北条氏政書状(「新田茂雄氏所蔵」『上越市史』別編1‐1018号)。

9)註8の史料より。

10)(元亀2年)3月11日付井上・野口宛北条家朱印状(「富士山本宮浅間神社文書」『静岡県史』資料編8−313号)。

11)「巨摩郡古文書」(『戦国遺文』武田氏編‐2553号)。

12)(天正10年)3月3日付治部少輔宛北条氏政書状「湯浅文書」(『静岡県史』資料編8‐1502号)。

13)元図は、御殿場市教委『深沢城跡 −確認調査報告書−』(2006年)のものを使用した。

14)丸馬出の研究史については、高田徹「丸馬出に関する一考察」(『中世城郭研究』16、2002年)で詳細にまとめられている。

15)小和田哲男「遠駿豆の城郭と縄張り」(『静岡県史』通史編2中世、第8章第4節、1997年)。高田氏の賛同は、註14の論文より。

16)深澤城址実測図(『御殿場の文化財』文化財のしおり5、御殿場市教委、1964年)

17)伊禮正雄「御殿場の中世城址」(『御殿場市史研究T』御殿場市史編さん委員会、1975年)



ページ最上部に戻る


トップページに戻る


※このHPの記事、写真、図などについて、出典元がこのHPであることを明記していれば、他のサイト、出版物等に転載してもかまいません。ただし、mixi内のサイトへの転載は一切禁止します。

本サイトは、著作権による保護の対象となります。従いまして、無断による複製及び転載、転用を固く禁じます。
COPYRIGHT(C) 2009 H Taizo ALL RIGHTS RESERVED.



inserted by FC2 system