目次 |
1.お城の歴史 |
1)蒲原城の位置 |
蒲原城は、静岡市清水区蒲原字城山に位置する。 蒲原城は、蒲原町市街地の背後にそびえる、標高約140mの山に位置している。城の西側は向田川によって深い谷が形成され、道路となっている東側も谷が深い。北側は尾根続きであるが、2つの谷が近接しているため、接続部分の幅が狭い。 |
図1 現在の蒲原城周辺図(Yahoo!地図より引用) 図2 昭和41年の蒲原城周辺図 (第4回蒲原城文化財シンポジウム資料より引用) |
2)蒲原城の歴史 |
@研究史 |
○研究史概略 蒲原城の研究史については、静岡市教育委員会『蒲原城跡総合調査報告書』(静岡市教育委員会、2007)に詳しい。ここでは、同書の記述をもとに整理するにとどめる。また、蒲原城の評価などは、「3.お城のつくり」で述べるので、ここでは省略する。 蒲原城は、後述する 蒲原城自体の構造に関する研究が進んだのは、昭和43年(1968)に刊行された『蒲原町史』からである。『蒲原町史』では、図が掲載されていないものの、「本丸」 こうした蒲原城に関する基礎調査に基づき、同62年から平成2年(1990)、同8年から同11年、同17年から同18年にかけて発掘調査が行われた。それに伴い、蒲原町は同11年に「蒲原城跡整備計画策定員会」を組織して整備計画を策定、同16年から「蒲原城跡総合調査検討会」を組織し、蒲原城の国指定史跡指定を目的に、文献・考古・縄張・地理などの様々な分野の研究者を集めて総合調査を実施、全5回のシンポジウムを開催して成果を公表し、同19年に『蒲原城跡総合調査報告書』を刊行した。この報告書が、蒲原城研究の到達点である。 |
A蒲原城の歴史 |
A.今川氏時代の蒲原城 |
蒲原城がいつ構築されたかは明らかでない。しかしながら、 |
図3 「河東一乱」勃発時の情勢(「「河東一乱」の経過」掲載図) |
一旦帰陣して、関東方面に軍を派遣していた北条氏は、天文8年、再び駿河国へ出陣する。具体的にどのような行動を取ったかは分からないが、7月29日、相模国松原大明神に与えた北条氏綱の判物に、 天文13年、今川氏と北条氏の抗争が再開する。そのような中、同年12月、連歌師 「河東一乱」終結後、蒲原城には在番制が敷かれ、駿河国の諸氏が番を勤めためた。史料を見ると、「蒲原在城」の忠節により、 このように、「河東一乱」によって今川氏の重要拠点として使用された蒲原城は、「河東一乱」終結後も放棄されることなく使用され、今川氏による駿河国支配の一端を担ったのである。蒲原城は、武田・北条両氏との同盟によって、駿河国東部の軍事的緊張が和らいでもなお、政治・経済的に見て、維持するに値するだけの価値があったのである。 |
B. |
○北条氏による蒲原城接収 永禄11年(1568)12月、 北条氏は、それまで武田・今川両氏と同盟関係にあったが、武田氏に同調せず、今川氏を救援する道を選んだ。12月12日、北条氏政が小田原を出陣、その月のうちに駿河国に入り、葛山城・興国寺城を占拠し、蒲原城に北条氏信を入れて、東部の要所を確保することに成功した8)。 |
図4 「駿州錯乱」に関連する主な城 |
これにより、蒲原城は、富士川から薩た山における軍事占領地域の拠点として機能することとなった。 一方、この頃信玄は、蒲原城を戦略的にどのように位置付けていたのだろうか。正月10日に、今川氏から内応した朝比奈駿河守に宛てた判物には、忠誠により庵原知行分を与える約束であったが、蒲原城と懸川城が陥落していないので、とりあえず替地を与え、平穏になった時に必ず約束を果たす、と記している10)。また、一、金吾知行分之外ニ、盗賊・謀叛・殺害罪科以下之糺明之儀、久能之当在城衆可有談合之事 付、懸川・蒲原落居世上静謐之砌、当国之諸法度可被行所、可定傍示之事 と記され、信君の知行外で盗賊などの犯罪を明らかにする時は、久能城の在城衆と相談することとし、懸川・蒲原両城が陥落して世の中が平穏になれば、諸法度を定める予定であるとした11)。 以上のことから、信玄は、懸川城と蒲原城の攻略が、戦争終結の鍵であったと認識していたことが分かる。 懸川城は、徳川家康が攻撃しているため、信玄の目標は、蒲原城の攻略となったが、正月26日に、前線拠点の薩た山を北条氏に攻略され12)、興津に封じ込められる形となり、4月24日、信玄は興津城・久能城に守備兵を残し撤退した13)。北条氏は追撃せず、5月16日、懸川城を開城した今川氏真を蒲原で迎え、沼津まで後送した14)。 ○武田信玄の反撃と蒲原城攻略 体勢を立て直した信玄は、同年6月、構築したばかりの深沢城を攻撃15)、こちらは攻略できなかったものの、7月3日、 その後、8月末より関東に出陣、小田原城に迫り、三増峠において北条軍を撃破して戦力を削ぐと17)、11月9日、蒲原・興国寺両城の攻略を祈願18)、22日、駿河国大宮に出陣、南下して蒲原城に迫った19)。 信玄は、しばらく蒲原城にとどまって普請を行った22)。12月19日、上野国の高山大和守泰重に書状を送り、普請完了次第帰陣し、信濃国岩村田まで出馬する予定であると述べている23)。 蒲原城の落城により、駿河国東部における武田氏の優位は揺るぎないものとなり、北条氏は富士川以西の重要拠点を失った。藤田氏邦(北条氏邦)が由良成繁に送った書状に、「蒲原以来、爰元益々無手透候」と、蒲原城の落城によって、こちらにますます余裕がなくなったと述べていることからも(「謙信公諸士来書 九」『上越』859)24)、蒲原城落城の影響の大きさがうかがえる。その後、信玄は元亀元年(1570)正月に花沢城・徳一色城を攻撃、開城させて駿河国西部を掌握、8月に興国寺・韮山城を攻撃し、翌年正月には深沢城を開城させた25)。北条氏は、興国寺・韮山・足柄城と、新たに構築した平山城を防衛ラインとして武田氏の侵攻を防ぐとともに、興国寺城を守る垪和氏続に、大宮・蒲原両城の内、どれかを攻略したならば、全て任せるとの書状を送って鼓舞したが26)、劣勢を挽回することができなかった。同年12月、北条氏康の死去を契機に、武田氏と北条氏の和睦が成立、黄瀬川を境として国分が行われ、「駿州錯乱」は終結した27)。 これによって、武田氏による駿河国支配が始まったが、今川氏の時とは異なり、その後の史料に蒲原城の名が見えなくなる。このことから、蒲原城は、「駿州錯乱」の終結によって、軍事的のみならず、今川氏時代に担っていた、政治・経済的な拠点としての機能も失い、その役目を終えたと見てよい。代わりにその機能を担ったのが、新たに構築された江尻城であった。 |
2.発掘調査成果 |
1)蒲原城の構成 |
蒲原城は、城山の山頂を中心に遺構が残っている。図5は、図2と同じ1966年(昭和41年)蒲原城周辺の地形図に、『蒲原城跡総合調査報告書』に記載されている遺構の名称を加筆したものである。当時使用されていた名称ではないが、蒲原城で発掘調査が行われており、混乱を避けるため、呼称を統一した。なお、現況遺構図及び実測図は、『蒲原城跡総合調査報告書』及び『駿河国蒲原城址調査報告書』(蒲原城址調査報告書編纂委員会編、1977)に掲載されているので、そちらをご参照いただきたい。 蒲原城は、山頂の本曲輪を中心に、尾根沿いに各曲輪を配置した構造となっている。本曲輪と善福寺曲輪との間は、人工的に寸断されており、「大堀切」と呼ばれている。さらに、善福寺曲輪の北方にも大規模な窪みがあり、こちらは「大空堀」と呼ばれている。この2ヶ所の堀によって尾根を寸断し、敵の侵攻を妨げていたと考えられている。 |
図5 蒲原城跡全体図(第4回蒲原城文化財シンポジウム資料に加筆) |
一方、「二曲輪上段」「二曲輪中・下段」「三曲輪」については、人工的に平坦地が造られていることがうかがえるものの、堀・土塁といった遺構がない。また、明治時代以降のミカン畑の造成により削平された箇所も多く、地形が改変され、当時の遺構が判明しにくくなっている(註:この点については、早くから指摘されている28)。 |
2)本曲輪の発掘調査 |
本曲輪は、城山の山頂に位置し、南北約70m、東西約24〜40mの楕円形で、現在は城山神社が鎮座している。神社及びその参道部分は30cmから1mほど盛り上がっており、段差が見られる。その他、石碑や鳥居が建っており、桜の名所としても知られている(現在は、病気による伐採が行われたらしく、切株が多くなっており、かつてのような見応えは望めないようだ)。 この本曲輪では、昭和62年(1987)から平成2年(1989)と、平成8年度の2回、発掘調査が行われた。 ○昭和62年から平成2年の発掘調査最初の発掘調査は、本調査のための予備調査として、既存建築物の建立がどのように遺構に影響を与えているかを調査した。結果、建築物のための造成及び基礎の影響は、建築物の周辺のみであると推定された。しかし、農耕と後世の人々の生活により、遺構面がかなりかく乱されていることが判明した29)。 ○平成8年度の発掘調査平成8年の発掘調査では、過去の掘削の状況を把握するべく、当初、8ヶ所のトレンチを設定、のちにグリッド調査に切り替え、遺構などが確認できれば調査範囲を拡張していく方法を採用した。結果、神社関連の遺構と、石積みの遺構が検出された。検出部分は図7の通りである。 神社関連の遺構は、海岸から採取した礫(れき)を敷いた参道や、鳥居代・燈籠台部で、出土遺物から、江戸時代のものと推定された。 |
写真1 現在の蒲原城本曲輪 図6 蒲原城本曲輪発掘調査成果(平成8年度調査) (第2回蒲原城文化財シンポジウム資料をもとに編集) |
その他、
以上のことから。現在の本曲輪は、後世の改変により地形が変化し、蒲原城機能時の姿をとどめていないことが分かった。 |
3)善福寺曲輪の発掘調査 |
善福寺曲輪は、南北約60m、東西最大で約55mの舌状の削平地である。最高地である本曲輪との標高差は約8mあり、本曲輪から善福寺曲輪を一望することができる一方、善福寺曲輪から本曲輪の様子をうかがうことは難しい。 この善福寺曲輪では、昭和62年から平成2年と、平成10年度、平成18年度の3回、発掘調査が行われた。 ○昭和62年から平成2年の発掘調査昭和62年から平成2年の発掘調査において、公園整備事業の一環として、善福寺曲輪の全面調査が行われた。しかしながら、のちの発掘調査報告書でも記されているように、この時行われた発掘調査の成果は、記述・図面・写真ともに記録化が不十分のため、検証が難しくなっている。判明している成果は、
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写真2 現在の蒲原城善福寺曲輪(本曲輪方面) 図7 本曲輪・善福寺曲輪縄張図(関口宏行氏作図) (『蒲原城跡総合調査報告書』より引用・加筆) |
○平成10年度の発掘調査平成10年度の発掘調査は、前回の発掘調査の問題点をもとに、曲輪の状態確認などを目的に実施された。その結果、
○平成18年度の発掘調査平成18年度の発掘調査は、善福寺曲輪北側の帯曲輪にある土塁にトレンチを入れた。その結果、すべて後世の造成であることが判明した34)。 このように、善福寺曲輪でも後世の改変により、蒲原城機能時の様子をうかがうことが困難になっている。また、現在見られる復元も誤解を招くものであり、再整備の必要があるだろう。 |
4)大堀切・大空堀の発掘調査 |
○大堀切大堀切は、本曲輪と善福寺曲輪の間に設けられた堀切である。昭和62年から平成2年にかけて発掘調査が行われ、堀底幅約3m、善福寺曲輪まで約5m・本曲輪まで12mの深さを持つ箱堀であることが明らかになった。 ○大空堀大空堀は、善福寺曲輪の北東に位置する。平成9年度の発掘調査で東西約40m、南北約70mの地域が調査地点として設定された。発掘調査前には蜜柑の栽培が行われており、その収穫を待っての調査となっている。 |
写真3 現在の蒲原城大堀切 (左側が善福寺曲輪、右側が本曲輪) 写真4 現在の蒲原城大空堀 藪におおわれており、遺構の状態を把握することが困難である。 |
5)二曲輪の発掘調査 |
○二曲輪上段二曲輪上段は、本曲輪の南西約50mのところに位置する平坦地である。。一昔前は蜜柑畑で使用されていたという。平成8年に発掘調査した結果、段差部・土坑・柱穴が検出された。土層を見ると、後世に、南側の土を北側に移し、平坦地を拡張したことが分かり、蒲原城機能時は、現況よりも狭小であったことが分かった。 ○二曲輪中段・下段二曲輪中段・下段は、上段の南西に位置する長方形の平坦地である。通路を境に上下2段から構成されている。平成9年・同16年度の2回発掘調査が行われた。 平成9年度の調査は、二曲輪中段・下段のほぼ中央に幅2mのトレンチを南北方向に設定した。調査の結果、二曲輪中段の北側で土塁が、中央部分において、配石遺構・石列遺構などが検出された。 また、土層断面より火災の発生と発生後に整地が行われていることが明らかとなった。写真5は、平成16年発掘調査時の土層断面である。オレンジ色の焼土層の上に灰色の層がはっきりと見えるのが分かる。ただし、土層断面による見解は、平成9年度調査と『蒲原城跡総合調査報告書』ではやや異なっている。具体的には、
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図8 二曲輪上段発掘調査成果 (第2回蒲原町文化財シンポジウム資料のトレンチ配置図と遺構分布図を合成したが、うまくいかず……)。 写真5 二曲輪中段、平成16年発掘調査(北側から) この発掘調査のカラー写真は、ここでしか見れないと思います。 写真5 二曲輪中段、平成16年発掘調査西側石列遺構 焼土層(オレンジ色)と、整地層(灰色)がはっきりと見える。 図9 二曲輪中段、下段発掘調査区域 (第2回蒲原町文化財シンポジウム資料を改変)。 |
6)三曲輪の発掘調査 |
本曲輪から南西に伸びる尾根の末端部に位置し、蒲原城の曲輪の中で最も大きい平坦地を三曲輪としている。平成10年度にトレンチを設定して発掘調査を行い、石列や配石遺構を検出したが、その時期や蒲原城と関係しているかについては、今後の検討課題としている41)。 |
3.お城のつくり |
1)蒲原城は石垣を持っていたのか |
蒲原城には、写真6のように、本曲輪や善福寺曲輪周辺で石垣が見られる。『日本城郭体系』や『図説中世城郭事典』では、「石塁」として、蒲原城の遺構の一部としており42)、天保14年(1843)に刊行された『駿国雑志』所載の蒲原城図は、全体に石垣が描かれている43)。 実際に現地を訪問して石垣を確認してみると、写真6のように、石の隅を立てるように積まれている。これは、「谷積」と呼ばれる、江戸時代末期以降に現れた石垣の積み方で、戦国時代にはない積み方である。よって、現在残っている蒲原城の石垣は、後世に積まれたものであり、蒲原城機能時にはなかったものであるといえる。 |
写真6 善福寺曲輪北側の石垣 |
2)東名高速道路工事による消滅部分について |
『蒲原城跡総合調査報告書』では、東名高速道路の工事によって消滅した部分(図5の「小峯砦(仮称)」部分)について、蒲原城関連の遺構であると認めた。その理由は以下の2点である。
「先祖石井忠兵衛尉隼人継高討死古城跡之図」は、江戸時代に書かれた絵図であるが、伊藤裕久氏が、「17世紀末頃の実態をかなり正確に伝えているのではないかろうか」(199頁)と評価し、消滅部分について、「地形図さらに「諸国古城之図」とも描写内容が、良く一致を見せ、大手に位置し、角櫓を配した大規模な曲輪であった可能性が高い」と評価した46)。 実際に『蒲原城跡総合調査報告書』所収の写真及び東名高速道路開通前の地形図を見てみると、かなり改変されていたことが分かる。写真を見ると、かなり多くの段が認められるが、これはミカン畑の造成によるものであって、蒲原城当時の遺構とはいえない。さらに、地形図を見ると、送電線、建設中の東名高速道路の地図記号が認められる。 なお、「小峯砦」の南側斜面に、縦に落ちる溝状のものが何条も確認できる。これについて、「連続竪堀」ではないか、とする見解があるが48))、すぐそばに東名高速道路が走っており、その影響を受けている可能性が高い。また、現状を観察したが、関口氏が述べるように(183頁)49)、崩落しやすい土であり、自然にできたものと考える方が妥当である。 |
3)蒲原城の根小屋と「城宿」について |
蒲原城の麓には、蒲原宿と、「根小屋」と呼ばれる場所があったことが史料から明らかになっている50)。伊藤裕久氏は、蒲原城の城下に存在したとみられる宿・根小屋について、地図・絵図史料や文献史料をもとにして当時の様子を復元した。それをもとに、
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図10 長榮寺の位置 |
との見解を示した。また、「根小屋」の場所について、近世に「根小屋」と称されていた長榮寺から東の高台地区と推定した。 |
4)蒲原城の評価 |
○先行研究蒲原城の評価は、研究者によって異なっている。 『図説中世城郭事典』では、「最高地所に本曲輪を置き、南西部の尾根を削平してこの曲輪を構え、西方の川に面して広く三の曲輪を設けるなど、地形を最大限に活用して、腰曲輪を多く付属させており、戦国期の山城としては、大規模で複雑な縄張をもっていることが特徴」と評価し、現況遺構について、「対武田戦を想定しての小田原北条氏による縄張と考えることが妥当であろう」として、北条氏によるものと指摘した54)。 このように、蒲原城研究の集大成である『蒲原城跡総合調査報告書』でも、統一した見解が出せていないことが分かる。
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4.まとめ |
蒲原城について、これまで述べてきたことをここで整理する。 蒲原城全体の構造を見てみると、丸子城や諏訪原城のような大きな半円状の堀や横堀、興国寺城のような巨大な土塁がない。見どころと言えば、本曲輪と善福寺曲輪の間にある大空堀ぐらいである。お城好きの方々にとって、蒲原城は魅力に欠けるお城である、と言える。 ただ、蒲原城を検討するには、あまりにも制約が多い。東名高速道路やミカン畑による地形改変、本曲輪・善福寺曲輪・二曲輪(特に平成9年度)の発掘調査は、当時の発掘調査技術を鑑みても、いい発掘調査だったとは言い難い。また、記録整理もずさんで、発掘調査の技術が発達した、平成16年度の二曲輪発掘調査成果でも、わずかに平面図が掲載されただけであった。蒲原城研究の集大成である『蒲原城跡総合調査報告書』も、統一した見解が出せていない。これが全てであると考える。 現在の蒲原城は、国指定史跡を目指し、毎年シンポジウムを行っていたことを全く感じさせないほど、整備されず、荒れ果てた状態になっている。このまま忘れ去られていくのであろうか。 2014年8月21日 記述終了 |
1)↑「記録御用所本古文書」。なお、釈文及び年次比定は、『蒲原城跡総合調査報告書』静岡市教育委員会、2007参照。
3)↑「甲州古文書集」など(『静岡県史』資料編7−1499〜1501)。
4)↑なお、当時の富士川の流路は、現在のそれとは異なり、現在の田子の浦港方向に乱流し、扇状地を形成していたという(高橋弥「富士川雁堤と徳川幕府初期の治世への影響」(『土木史研究』10、1990、25頁)。
6)↑「御感状之写并書翰」(『静岡県史』資料編7−2070号)、「朝比奈文書」(『静岡県史』資料編7−2724号)。
9)↑ 「御感状之写并書翰」(『静岡県史』資料編7−3516号)
10)↑「土佐国蠧簡集残篇四」(『戦国遺文』武田氏編−1353号)
11)↑「駿河国新風土記 巻一九」(『戦国遺文 武田氏編』−1396号)
12)↑「上杉家文書」、「歴代古案 二」(『上越市史』別編1−653・654号)
13)↑「伊達文書」(『静岡県史』資料編7−3745号)など。
15)↑「上杉家文書」(『上越市史』別編1−765〜768号)
16)↑「大井家文書」(『戦国遺文 武田氏編』−1428号)
17)↑「京都市『古裂会目録』平成11年」(『戦国遺文 武田氏編』−1464号)など。
18)↑「陽雲寺文書」(『戦国遺文 武田氏編』−1471号)
19)↑「松田仙三氏所蔵文書」(『静岡県史』資料編8−109号)
20)↑「信玄公宝物館所蔵文書」(『戦国遺文 武田氏編』−1482号)、「古今消息集」(『静岡県史』資料編8−134号)
21)↑「信玄公宝物館所蔵文書」(『戦国遺文 武田氏編』−1482号)など。
22)↑「川上茂久氏所蔵文書」(『戦国遺文 武田氏編』−1485号)
24)↑「謙信公諸士来書 九」(『上越市史』別編1−859号)
25)↑この時期の動向は、黒田基樹「北条氏の駿河防衛と諸城」(同著『戦国期東国の大名と国衆』岩田書院、2001。初出1996)が詳しい。
28)↑『駿河国蒲原城址発掘調査報告書』蒲原町教育委員会、1991、38・39頁。
30)↑『蒲原城−平成8年度範囲確認調査報告書−』蒲原町教育委員会、1997、18・35頁。
33)↑『蒲原城−平成10年度範囲確認調査報告書−』蒲原町教育委員会、1999、24・25頁。
34)↑『蒲原城跡総合調査報告書』静岡市教育委員会、2007、28頁。
36)↑『蒲原城−平成9年度範囲確認調査報告書−』蒲原町教育委員会、1998、17・22頁。
40)↑なお、『蒲原城跡総合調査報告書』では、平成16年度の調査成果から、新たに3期に分かれる可能性が明らかとなった」と述べているが、すでに平成9年度の調査成果で、3期に分かれる点が指摘されている。
42)↑『日本城郭体系』9、新人物往来社、1982、94頁。『図説中世城郭事典』2、新人物往来社、1987、189頁。
48)↑見崎鬨雄「武田氏蒲原城攻略後の再利用に関する一視点」(『古城』50、2004年)、土屋比都司「蒲原城の遺構とその合戦に関する考察」(同左)
49)↑註34報告書、183頁。
なお、書陵部本為和集には、葛山氏広(『静岡県史』資料編7−1202号)・同氏元(『静岡県史』資料編7−1844号)・太原雪斎(『静岡県史』資料編7−1767号)の出自に関する朱筆の書入れがあるが、後世の加筆であることが明らかになった。
56)↑前田利久「蒲原城の歴史的位置付け」『蒲原城 平成10年度範囲確認調査報告書』蒲原町教育委員会、1999、32頁。のちに『蒲原城跡総合調査報告書』第5章第1節、172・173頁加筆再録
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