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■ 蒲原(かんばら城データ ■
所在地静岡市清水区蒲原字城山
お城が機能した時期16世紀前期から中期
お城の持ち主今川氏,北条氏,武田氏
遺構
オススメ度★★☆☆☆


地図はこちら⇒




目次

  1. お城の歴史


    1. 蒲原城の位置


    2. 蒲原城の歴史


      1. 研究史


      2. 蒲原城の歴史


        1. A.今川氏時代の蒲原城


        2. B.「駿州錯乱」時の蒲原城




  2. 発掘調査成果


    1. 蒲原城の構成


    2. 本曲輪の発掘調査


    3. 善福寺曲輪の発掘調査


    4. 大堀切・大空堀の発掘調査


    5. 二曲輪の発掘調査


    6. 三曲輪の発掘調査




  3. お城のつくり


    1. 蒲原城は石垣を持っていたのか


    2. 東名高速道路工事による消滅部分について


    3. 蒲原城の根小屋と「城宿」について


    4. 蒲原城の評価




  4. まとめ




1.お城の歴史


1)蒲原城の位置

蒲原城は、静岡市清水区蒲原字城山に位置する。
 蒲原城の位置であるが、現在は、東名高速道路によって、蒲原城周辺の様子が若干分かりにくくなっている(図1)。そのため、東名高速道路開通前の1966年(昭和41年)蒲原城周辺の地形図(図2)をもとに見ていくこととする。

 

蒲原城は、蒲原町市街地の背後にそびえる、標高約140mの山に位置している。城の西側は向田川によって深い谷が形成され、道路となっている東側も谷が深い。北側は尾根続きであるが、2つの谷が近接しているため、接続部分の幅が狭い。
南方は、中近世において蒲原宿を形成した蒲原の街並みと、東海道が眼下に見える。遠くは伊豆方面を見渡すことができるが、西側は薩た山、東側は、道路を挟んだ山(通称狼煙場)によって、富士方面・静岡方面の視界が遮られている。視界という点で見ると、蒲原城だけでは、やや難があると言わざるを得ず、情報収集のためには、薩た山などの山々を掌握して連携を取る必要性がある。それでもなお、ここに城を構築したのは、東海道、特に蒲原宿の存在が大きかったのではなかろうか。
以上のことから、蒲原城は、東海道、特に蒲原宿と関連を持った城であるといえる。軍事面だけでなく、政治・経済的な観点から構築されたと考えられる。


図1 現在の蒲原城周辺図(Yahoo!地図より引用)
図2 昭和41年の蒲原城周辺図
(第4回蒲原城文化財シンポジウム資料より引用)



2)蒲原城の歴史



@研究史


○研究史概略

蒲原城の研究史については、静岡市教育委員会『蒲原城跡総合調査報告書』(静岡市教育委員会、2007)に詳しい。ここでは、同書の記述をもとに整理するにとどめる。また、蒲原城の評価などは、「3.お城のつくり」で述べるので、ここでは省略する。

蒲原城は、後述する「駿州錯乱」(すんしゅうさくらんにおいて、武田氏と北条氏が戦った場所として取り上げられ、近世初期に成立した『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん『北条五代記』(ほうじょうごだいきに戦いの様子が記されている。『甲陽軍鑑』には、「善福寺丸」「本城」といった名前が記されている。
近世後期になると多くの地誌類が編纂され、駿河国関係の地誌類で蒲原城が取り上げられている。『駿河記』(するがき(文政3年[1820]刊行)では、「蒲原城墟」として、今は畠になっていること、頂上に八幡の小祠があること、などが記されている。また、『駿河志料』(するがしりょう(文久元年[1861]成立)では、「山下に外曲輪跡と思しく、田間土中に石垣残れり」との記述がある。その他、『駿国雑誌』(すんこくざっし(天保13年[1842]刊行)や『静岡県庵原郡誌』(しずおかけんいはらぐんし(大正5年[1916]刊行)などで取り上げられたが、記述の大半は、武田氏と北条氏の抗争に割かれており、蒲原城自体の構造に関する記述は少なかった。

蒲原城自体の構造に関する研究が進んだのは、昭和43年(1968)に刊行された『蒲原町史』からである。『蒲原町史』では、図が掲載されていないものの、「本丸」「善福寺曲輪」(ぜんぷくじくるわ「二の丸」「三の丸」や、腰曲輪や小曲輪群などの小規模な遺構群まで詳しく述べられている。また、同52年に刊行された『駿河国蒲原城址調査報告書』では、詳細な実測図が掲載された。
その後は中世城研究の進展とともに蒲原城の研究も進んでいく。同54年に刊行された『日本城郭体系』、同56年の『静岡県の中世城館跡』(静岡県教育委員会)、同62年の『図説中世城郭事典』で縄張図とともに調査成果が発表された。

こうした蒲原城に関する基礎調査に基づき、同62年から平成2年(1990)、同8年から同11年、同17年から同18年にかけて発掘調査が行われた。それに伴い、蒲原町は同11年に「蒲原城跡整備計画策定員会」を組織して整備計画を策定、同16年から「蒲原城跡総合調査検討会」を組織し、蒲原城の国指定史跡指定を目的に、文献・考古・縄張・地理などの様々な分野の研究者を集めて総合調査を実施、全5回のシンポジウムを開催して成果を公表し、同19年に『蒲原城跡総合調査報告書』を刊行した。この報告書が、蒲原城研究の到達点である。




A蒲原城の歴史


A.今川氏時代の蒲原城


蒲原城がいつ構築されたかは明らかでない。しかしながら永享(えいきょう6年(1434)と推定される正月11日付牟礼但馬守(むれたじまのかみ今川範忠(いまがわのりただ感状写に「去ル九日、其城蒲原一揆相囲之処」(さるここのか、そのしろかんばらいっきあいかこうのところとあり、すでに15世紀には蒲原城が存在していたことが分かる。なお、この史料が蒲原城の初見である1)
再び蒲原城が史料に現れるのは、天文(てんぶん6年(1537)2月、今川義元武田信虎と婚姻関係を結んだことを契機に、北条氏綱が駿河国へ侵攻する。いわゆる「河東一乱」(かとういちらんの時である。義元は、駿河東部の有力者である葛山氏(かづらやましや、遠江国の井伊氏・堀越氏らの離反によってその対応に追われたため、北条氏の侵攻を止められず、富士川以東、いわゆる「河東」地域を占領されてしまった(詳細は、「「河東一乱」の経過」を参照)。


図3 「河東一乱」勃発時の情勢(「「河東一乱」の経過」掲載図)

一旦帰陣して、関東方面に軍を派遣していた北条氏は、天文8年、再び駿河国へ出陣する。具体的にどのような行動を取ったかは分からないが、7月29日、相模国松原大明神に与えた北条氏綱の判物に、「今度駿州動之上、令祈願処、無相違以本意願、令帰陣畢」(こんどすんしゅうはたらきのうえ、きがんせしむるところ、そういなくほいのねがいをもって、きじんせしめおわんぬ(今度駿河国を攻撃するので、勝利を祈願したところ、祈願通りなり、帰陣した)と記されており2)、本格的な軍事行動であったと考えられる。その際、蒲原城が北条氏の攻撃を受けたとする史料が残っているが3)、内容に検討の余地があるため、実際に蒲原城で合戦があったかどうかは定かではない。しかしながら、これによって、今川氏は蒲原城、北条氏は吉原城を拠点として、富士川を挟みにらみ合う状況となった4)。蒲原城は、対北条氏の最前線の軍事拠点として機能することとなった。

天文13年、今川氏と北条氏の抗争が再開する。そのような中、同年12月、連歌師宗牧(そうぼくが蒲原城を訪れた。宗牧は、まず風呂に入ったあと、北条方である吉原城からの返事を見て、通行許可を得られたことに安堵したのち、夜になり「本城」(現在でいう「本丸」)に入り、飯尾乗連(いのおのりつら・原六郎・二俣昌長といった遠江国に本拠を置く諸氏と対面した5)。今川氏は、遠く遠江国の諸氏まで招集をかけ、蒲原城の番を勤めさせていたことが分かる。また、宗牧を招いたのが夜であった点も注目される。このあと北条氏のもとへ下る宗牧に、蒲原城の守備を見せないようにしたと考えられる。

「河東一乱」終結後、蒲原城には在番制が敷かれ、駿河国の諸氏が番を勤めためた。史料を見ると、「蒲原在城」の忠節により、由比光澄(ゆいみつずみが借銭(借金のこと)を免除され、朝比奈千世増(あさひなちよますが知行を与えられている6)また、佐竹高貞は、蒲原城「根小屋」の堀・築地の改替として3人の扶持や段銭を以前と同様に扶助されている7)


このように、「河東一乱」によって今川氏の重要拠点として使用された蒲原城は、「河東一乱」終結後も放棄されることなく使用され、今川氏による駿河国支配の一端を担ったのである。蒲原城は、武田・北条両氏との同盟によって、駿河国東部の軍事的緊張が和らいでもなお、政治・経済的に見て、維持するに値するだけの価値があったのである。





B.「駿州錯乱」(すんしゅうさくらん時の蒲原城


○北条氏による蒲原城接収

永禄11年(1568)12月、武田信玄(たけだしんげんが駿河国に侵攻し、今川氏真(いまがわうじざねを遠江国懸川城へ追いやった。いわゆる「駿州錯乱」である。

北条氏は、それまで武田・今川両氏と同盟関係にあったが、武田氏に同調せず、今川氏を救援する道を選んだ。12月12日、北条氏政が小田原を出陣、その月のうちに駿河国に入り、葛山城・興国寺城を占拠し、蒲原城に北条氏信を入れて、東部の要所を確保することに成功した8)
北条氏は、今川氏に従っている蒲原在城衆に対し、北条氏の援軍が「肝要之曲輪」(重要な曲輪)に移ったかどうかを尋ねている9)。蒲原城は今川氏の拠点であったが、ここで事実上北条氏の管理下に入ったといえる。


図4 「駿州錯乱」に関連する主な城

これにより、蒲原城は、富士川から薩た山における軍事占領地域の拠点として機能することとなった。

一方、この頃信玄は、蒲原城を戦略的にどのように位置付けていたのだろうか。正月10日に、今川氏から内応した朝比奈駿河守に宛てた判物には、忠誠により庵原知行分を与える約束であったが、蒲原城と懸川城が陥落していないので、とりあえず替地を与え、平穏になった時に必ず約束を果たす、と記している10)また穴山信君(あなやまのぶきみに宛てて送った掟書には、

一、金吾知行分之外ニ、盗賊・謀叛・殺害罪科以下之糺明之儀、久能之当在城衆可有談合之事
  付、懸川・蒲原落居世上静謐之砌、当国之諸法度可被行所、可定傍示之事


と記され、信君の知行外で盗賊などの犯罪を明らかにする時は、久能城の在城衆と相談することとし、懸川・蒲原両城が陥落して世の中が平穏になれば、諸法度を定める予定であるとした11)
以上のことから、信玄は、懸川城と蒲原城の攻略が、戦争終結の鍵であったと認識していたことが分かる。
懸川城は、徳川家康が攻撃しているため、信玄の目標は、蒲原城の攻略となったが、正月26日に、前線拠点の薩た山を北条氏に攻略され12)、興津に封じ込められる形となり、4月24日、信玄は興津城・久能城に守備兵を残し撤退した13)。北条氏は追撃せず、5月16日、懸川城を開城した今川氏真を蒲原で迎え、沼津まで後送した14)


○武田信玄の反撃と蒲原城攻略

体勢を立て直した信玄は、同年6月、構築したばかりの深沢城を攻撃15)、こちらは攻略できなかったものの、7月3日富士兵部少輔(ふじひょうぶのしょうの拠る大宮城を開城させ16)、駿河国東部攻略への橋頭保を築くことに成功した。

その後、8月末より関東に出陣、小田原城に迫り、三増峠において北条軍を撃破して戦力を削ぐと17)11月9日、蒲原・興国寺両城の攻略を祈願18)22日、駿河国大宮に出陣、南下して蒲原城に迫った19)
この時蒲原城には、北条氏信の他、清水・笠原・狩野介といった北条氏の有力家臣、旧大宮城主の富士兵部少輔が守備に就いていた20)12月6日、武田軍が「根小屋」を放火すると、北条軍が出撃してきたためそれを迎撃、これに勝利した。武田軍は、その勢いのまま城内に攻め入ると、北条軍は支えきれず、氏信他多数の戦死者を出して敗退、蒲原城は落城した21)

信玄は、しばらく蒲原城にとどまって普請を行った22)12月19日、上野国の高山大和守泰重に書状を送り、普請完了次第帰陣し、信濃国岩村田まで出馬する予定であると述べている23)

蒲原城の落城により、駿河国東部における武田氏の優位は揺るぎないものとなり、北条氏は富士川以西の重要拠点を失った。藤田氏邦(北条氏邦)が由良成繁に送った書状に、「蒲原以来、爰元益々無手透候」と、蒲原城の落城によって、こちらにますます余裕がなくなったと述べていることからも(「謙信公諸士来書 九」『上越』859)24)、蒲原城落城の影響の大きさがうかがえる。その後、信玄は元亀元年(1570)正月に花沢城・徳一色城を攻撃、開城させて駿河国西部を掌握、8月に興国寺・韮山城を攻撃し、翌年正月には深沢城を開城させた25)。北条氏は、興国寺・韮山・足柄城と、新たに構築した平山城を防衛ラインとして武田氏の侵攻を防ぐとともに、興国寺城を守る垪和氏続に、大宮・蒲原両城の内、どれかを攻略したならば、全て任せるとの書状を送って鼓舞したが26)、劣勢を挽回することができなかった。同年12月、北条氏康の死去を契機に、武田氏と北条氏の和睦が成立、黄瀬川を境として国分が行われ、「駿州錯乱」は終結した27)

これによって、武田氏による駿河国支配が始まったが、今川氏の時とは異なり、その後の史料に蒲原城の名が見えなくなる。このことから、蒲原城は、「駿州錯乱」の終結によって、軍事的のみならず、今川氏時代に担っていた、政治・経済的な拠点としての機能も失い、その役目を終えたと見てよい。代わりにその機能を担ったのが、新たに構築された江尻城であった。







2.発掘調査成果


1)蒲原城の構成

蒲原城は、城山の山頂を中心に遺構が残っている。図5は、図2と同じ1966年(昭和41年)蒲原城周辺の地形図に、『蒲原城跡総合調査報告書』に記載されている遺構の名称を加筆したものである。当時使用されていた名称ではないが、蒲原城で発掘調査が行われており、混乱を避けるため、呼称を統一した。なお、現況遺構図及び実測図は、『蒲原城跡総合調査報告書』及び『駿河国蒲原城址調査報告書』(蒲原城址調査報告書編纂委員会編、1977)に掲載されているので、そちらをご参照いただきたい。

蒲原城は、山頂の本曲輪を中心に、尾根沿いに各曲輪を配置した構造となっている。本曲輪と善福寺曲輪との間は、人工的に寸断されており、「大堀切」と呼ばれている。さらに、善福寺曲輪の北方にも大規模な窪みがあり、こちらは「大空堀」と呼ばれている。この2ヶ所の堀によって尾根を寸断し、敵の侵攻を妨げていたと考えられている。


図5  蒲原城跡全体図(第4回蒲原城文化財シンポジウム資料に加筆)

一方、「二曲輪上段」「二曲輪中・下段」「三曲輪」については、人工的に平坦地が造られていることがうかがえるものの、堀・土塁といった遺構がない。また、明治時代以降のミカン畑の造成により削平された箇所も多く、地形が改変され、当時の遺構が判明しにくくなっている(註:この点については、早くから指摘されている28)
そのため、蒲原城では、発掘調査による遺構の検出と、出土遺物による年代比定が重要となる。幸い、史跡整備に伴い、数度にわたり確認調査が行われ、成果があげられている。まずは発掘調査成果を整理する。





2)本曲輪の発掘調査

本曲輪は、城山の山頂に位置し、南北約70m、東西約24〜40mの楕円形で、現在は城山神社が鎮座している。神社及びその参道部分は30cmから1mほど盛り上がっており、段差が見られる。その他、石碑や鳥居が建っており、桜の名所としても知られている(現在は、病気による伐採が行われたらしく、切株が多くなっており、かつてのような見応えは望めないようだ)。

この本曲輪では、昭和62年(1987)から平成2年(1989)と、平成8年度の2回、発掘調査が行われた。

○昭和62年から平成2年の発掘調査

最初の発掘調査は、本調査のための予備調査として、既存建築物の建立がどのように遺構に影響を与えているかを調査した。
結果、建築物のための造成及び基礎の影響は、建築物の周辺のみであると推定された。しかし、農耕と後世の人々の生活により、遺構面がかなりかく乱されていることが判明した29)

○平成8年度の発掘調査

平成8年の発掘調査では、過去の掘削の状況を把握するべく、当初、8ヶ所のトレンチを設定、のちにグリッド調査に切り替え、遺構などが確認できれば調査範囲を拡張していく方法を採用した。
結果、神社関連の遺構と、石積みの遺構が検出された。検出部分は図7の通りである。

神社関連の遺構は、海岸から採取した礫(れき)を敷いた参道や、鳥居代・燈籠台部で、出土遺物から、江戸時代のものと推定された。
石積み遺構は、基盤層を斜めに削り、その斜面に沿うように石が積まれており、本曲輪の斜面に沿って石積みが構築された可能性があることが判明した。構築時期について報告書は、「蒲原城機能時のものか、機能停止後に補修されたものかは現状では判断が難しい」として、今後の課題としている30)


写真1 現在の蒲原城本曲輪


図6 蒲原城本曲輪発掘調査成果(平成8年度調査)
(第2回蒲原城文化財シンポジウム資料をもとに編集)

その他、

  1. 江戸時代・大正時代に広範囲な掘削が行われたこと
  2. 現在見られる段差は、社殿域の地境として掘削された可能性が高いこと
  3. 昭和34年の富士川台風で社殿が破壊された際、従前の瓦葺の社殿に代わり、コンクリート造りの現社殿が新設された。その時の瓦が各トレンチから出土しており、この時、石積み遺構の一部が埋められ、境内地が拡幅されたと考えられること
が判明した31)


以上のことから。現在の本曲輪は、後世の改変により地形が変化し、蒲原城機能時の姿をとどめていないことが分かった。



3)善福寺曲輪の発掘調査

善福寺曲輪は、南北約60m、東西最大で約55mの舌状の削平地である。最高地である本曲輪との標高差は約8mあり、本曲輪から善福寺曲輪を一望することができる一方、善福寺曲輪から本曲輪の様子をうかがうことは難しい。
図9のように、曲輪の周辺には、帯曲輪と呼ばれる、主要な曲輪の外周に配置される細長い小曲輪がいくつか見られる。また、善福寺曲輪とその北に位置する帯曲輪には、土塁が見られ、善福寺曲輪の周囲は、旧蒲原町によって逆茂木や木柵が推定復元されている。

この善福寺曲輪では、昭和62年から平成2年と、平成10年度、平成18年度の3回、発掘調査が行われた。

○昭和62年から平成2年の発掘調査

昭和62年から平成2年の発掘調査において、公園整備事業の一環として、善福寺曲輪の全面調査が行われた。しかしながら、のちの発掘調査報告書でも記されているように、この時行われた発掘調査の成果は、記述・図面・写真ともに記録化が不十分のため、検証が難しくなっている。判明している成果は、
  1. 南側と西側の土塁は、後世の積み上げによるものである。
  2. 西側の3段の帯曲輪のうち、1段目は後世の開墾によるもの。2段目と3段目は、蒲原城機能時のものと考えられ、2段目は大空堀とつながっている。
の2点である32)

写真2 現在の蒲原城善福寺曲輪(本曲輪方面)


図7 本曲輪・善福寺曲輪縄張図(関口宏行氏作図)
(『蒲原城跡総合調査報告書』より引用・加筆)

○平成10年度の発掘調査

平成10年度の発掘調査は、前回の発掘調査の問題点をもとに、曲輪の状態確認などを目的に実施された。その結果、

  1. 3つのトレンチで曲輪の端部を検出し、善福寺曲輪の北・東側の範囲が確定した。
  2. 善福寺曲輪に見られる石積の一部に(図9の黒線)トレンチを入れたところ、石積の立ち上がり角度とほぼ同様の角度で山の斜面を削り込んでおり、裏込めには土を入れるだけの脆弱な印象を持つものであった。なお、出土遺物はなく、時期を決定することができなかった(なお、2005年に開催された第3回蒲原町文化財シンポジウム「蒲原城と蒲原宿」において、石積みの可能性は低く、自然地形の岩盤が現れたものではないか、との指摘が「遺構調査会」よりあった。また、『蒲原城跡総合調査報告書』では、この大堀切だけでなく、平成2年から4年にかけて、善福寺曲輪・大堀切・帯曲輪の復元整備が行われ、帯曲輪では、重機による曲輪の拡幅の後、暗渠が多数掘られ、善福寺曲輪側斜面の石垣の構築あるいは積み直しが行われていると記されている)。
  3. 善福寺曲輪南端部で検出された、南北幅約1.6m、高さ約0.5mの台形状施設について、削り出しの土塁よりは、本曲輪とを結ぶ橋の橋台の可能性がある。
の3点の成果が表れた33)

○平成18年度の発掘調査

平成18年度の発掘調査は、善福寺曲輪北側の帯曲輪にある土塁にトレンチを入れた。その結果、すべて後世の造成であることが判明した34)


このように、善福寺曲輪でも後世の改変により、蒲原城機能時の様子をうかがうことが困難になっている。また、現在見られる復元も誤解を招くものであり、再整備の必要があるだろう。



4)大堀切・大空堀の発掘調査

○大堀切

大堀切は、本曲輪と善福寺曲輪の間に設けられた堀切である。昭和62年から平成2年にかけて発掘調査が行われ、堀底幅約3m、善福寺曲輪まで約5m・本曲輪まで12mの深さを持つ箱堀であることが明らかになった。
出土遺物は、本曲輪や善福寺曲輪、特に本曲輪から投棄されたと思われる大量の陶磁器片、かわらけ片、すさ入りの壁土や多量の炭を含む層が検出された。出土遺物の多くがかわらけであったことは、本曲輪において何らかの振舞が催されたことを示しており、注目される35)

○大空堀

大空堀は、善福寺曲輪の北東に位置する。平成9年度の発掘調査で東西約40m、南北約70mの地域が調査地点として設定された。発掘調査前には蜜柑の栽培が行われており、その収穫を待っての調査となっている。
トレンチを入れて調査した結果、東西両側ともに堀の立ち上がりと、斜面の途中に幅約2mの削平地が検出された。犬走りと考えられている。堀底は、軟弱な覆土と激しい湧水により、検出を断念しており、堀の形状の解明には至っていない。
発掘調査報告書では、「自然の谷を利用、改変して空堀としている」と述べている36)


写真3 現在の蒲原城大堀切
(左側が善福寺曲輪、右側が本曲輪)


写真4 現在の蒲原城大空堀
藪におおわれており、遺構の状態を把握することが困難である。


5)二曲輪の発掘調査

○二曲輪上段

二曲輪上段は、本曲輪の南西約50mのところに位置する平坦地である。。一昔前は蜜柑畑で使用されていたという。平成8年に発掘調査した結果、段差部・土坑・柱穴が検出された。土層を見ると、後世に、南側の土を北側に移し、平坦地を拡張したことが分かり、蒲原城機能時は、現況よりも狭小であったことが分かった。
なお、発掘調査報告書では、トレンチ配置図と遺構分布図が別々に掲載されており、状況がつかみずらくなっている37)。また、南端部に土塁が見られるが、調査の結果、後世造られたものであることが分かった。

○二曲輪中段・下段

二曲輪中段・下段は、上段の南西に位置する長方形の平坦地である。通路を境に上下2段から構成されている。平成9年・同16年度の2回発掘調査が行われた。

平成9年度の調査は、二曲輪中段・下段のほぼ中央に幅2mのトレンチを南北方向に設定した。調査の結果、二曲輪中段の北側で土塁が、中央部分において、配石遺構・石列遺構などが検出された。
その後、平成16年度に二曲輪中段を調査区域を広げた上で再調査が行われ、石列遺構や礎石と思われる河原石が検出され、平成9年度で検出された配石遺構を中心に、石列が周囲をめぐっている建物が存在していたことが明らかになった。また、この調査によって、平成9年度調査における「深掘り」が明らかになった。つまり、遺構面を検出すべきところを飛ばし、深く掘りすぎたのである。

また、土層断面より火災の発生と発生後に整地が行われていることが明らかとなった。写真5は、平成16年発掘調査時の土層断面である。オレンジ色の焼土層の上に灰色の層がはっきりと見えるのが分かる。ただし、土層断面による見解は、平成9年度調査と『蒲原城跡総合調査報告書』ではやや異なっている。具体的には、

  1. 平成9年度調査
    整地層が2層、その上に焼土層が1層、さらにその上に整地層1層が確認され、層位的に時期が3期に分けられる可能性38)

  2. 『蒲原城跡総合調査報告書』
    整地層が2層、その上に焼土層が1層、さらにその上に整地層1層が確認され、焼土層が再び堆積したのち、現在の耕作土が堆積する39)
つまり、『蒲原城跡総合調査報告書』では、焼土層が2層あると指摘しており、新しい時期に堆積した焼土層を、「永禄12年に武田軍の攻撃を受け火災による」ものとし(46頁)、検出した石列遺構は、永禄12年の落城以前に形成されたものであり、落城後の再利用が見られないと指摘しているのである。非常に重要な指摘であるが、残念ながら、明確な論拠は見られず、また、平成16年度発掘調査成果も、平面図のみ掲載され、肝心の土層断面が掲載されていない。今後の再整理をお願いしたい40)

図8 二曲輪上段発掘調査成果
(第2回蒲原町文化財シンポジウム資料のトレンチ配置図と遺構分布図を合成したが、うまくいかず……)。



写真5 二曲輪中段、平成16年発掘調査(北側から)
この発掘調査のカラー写真は、ここでしか見れないと思います。

写真5 二曲輪中段、平成16年発掘調査西側石列遺構
焼土層(オレンジ色)と、整地層(灰色)がはっきりと見える。

図9 二曲輪中段、下段発掘調査区域
(第2回蒲原町文化財シンポジウム資料を改変)。


6)三曲輪の発掘調査

本曲輪から南西に伸びる尾根の末端部に位置し、蒲原城の曲輪の中で最も大きい平坦地を三曲輪としている。平成10年度にトレンチを設定して発掘調査を行い、石列や配石遺構を検出したが、その時期や蒲原城と関係しているかについては、今後の検討課題としている41)







3.お城のつくり


1)蒲原城は石垣を持っていたのか

蒲原城には、写真6のように、本曲輪や善福寺曲輪周辺で石垣が見られる。『日本城郭体系』や『図説中世城郭事典』では、「石塁」として、蒲原城の遺構の一部としており42)天保14年(1843)に刊行された『駿国雑志』所載の蒲原城図は、全体に石垣が描かれている43)
このことから、蒲原城には石垣があったとされ、戦国大名が石垣の技術を城に導入した事例とされてきた。しかしながら、『蒲原城跡総合調査報告書』では、「全体に不自然で後世の積み直しとみられる」として否定している44)

実際に現地を訪問して石垣を確認してみると、写真6のように、石の隅を立てるように積まれている。これは、「谷積」と呼ばれる、江戸時代末期以降に現れた石垣の積み方で、戦国時代にはない積み方である。よって、現在残っている蒲原城の石垣は、後世に積まれたものであり、蒲原城機能時にはなかったものであるといえる。


写真6 
善福寺曲輪北側の石垣



2)東名高速道路工事による消滅部分について

『蒲原城跡総合調査報告書』では、東名高速道路の工事によって消滅した部分(図5の「小峯砦(仮称)」部分)について、蒲原城関連の遺構であると認めた。その理由は以下の2点である。


  1. 新たに発見された志田喜代江氏所蔵の絵図「先祖石井忠兵衛尉隼人継高討死古城跡之図」で、蒲原城の曲輪とみられる平坦地が「平地畑」と表記され、消滅部分も「平地畑」とされている。

  2. 「駿河(駿州)蒲原取出ノ図」で描かれている、「取出」は、上記志田氏所蔵の「平地畑」に相当する)45)

「先祖石井忠兵衛尉隼人継高討死古城跡之図」は、江戸時代に書かれた絵図であるが、伊藤裕久氏が、「17世紀末頃の実態をかなり正確に伝えているのではないかろうか」(199頁)と評価し、消滅部分について、「地形図さらに「諸国古城之図」とも描写内容が、良く一致を見せ、大手に位置し、角櫓を配した大規模な曲輪であった可能性が高い」と評価した46)
また、関口宏行氏は、「面積も広大なことに加えて四週が赦免であり独立丘の山容であることから、四区画の曲輪の集合体とするより、砦と称するにふさわしい規模である」「蒲原城全体の縄張りから推測するならば、後北条氏が入城した段階で、曲輪の拡張や防御物の配置をしている普請中に、武田軍の来攻によって陥落し、功(筆者註;攻の誤字か)城軍の武田氏によって、大改修を行い、完成をしたのではあるまいか」「永禄末年頃の段階で、戦国大名の武田氏とする考え方が妥当であろうと述べている47)

実際に『蒲原城跡総合調査報告書』所収の写真及び東名高速道路開通前の地形図を見てみると、かなり改変されていたことが分かる。写真を見ると、かなり多くの段が認められるが、これはミカン畑の造成によるものであって、蒲原城当時の遺構とはいえない。さらに、地形図を見ると、送電線、建設中の東名高速道路の地図記号が認められる。
以上のことから、写真が撮られた時点で、すでに大きく改変されていた可能性が高く、蒲原城機能時の遺構が残っていたとは思えない。また、今回論拠として挙げられている2つの絵図は、いずれも江戸時代以降のものであり、論拠として非常に弱いと言わざるを得ない。
以上のことから、この消滅部分が蒲原城の遺構の一部であったのであれば、蒲原城はかなり大規模な城であったことになるが、残念ながら現在それを確証させるものがない。「地理的にみて、蒲原城と関連する場所であった可能性がある」という言及にとどめる。

なお、「小峯砦」の南側斜面に、縦に落ちる溝状のものが何条も確認できる。これについて、「連続竪堀」ではないか、とする見解があるが48))、すぐそばに東名高速道路が走っており、その影響を受けている可能性が高い。また、現状を観察したが、関口氏が述べるように(183頁)49)、崩落しやすい土であり、自然にできたものと考える方が妥当である。



3)蒲原城の根小屋と「城宿」について

蒲原城の麓には、蒲原宿と、「根小屋」と呼ばれる場所があったことが史料から明らかになっている50)伊藤裕久氏は、蒲原城の城下に存在したとみられる宿・根小屋について、地図・絵図史料や文献史料をもとにして当時の様子を復元した。それをもとに、

  1. 戦国期の蒲原宿は、東海道沿いに発展した町宿と、城山の麓に発展した城宿(「根小屋・当城宿」)という二類型の宿で構成されており、山麓の城宿には、のちの「蒲原御殿」に継承される居館が配されたと考えられる。

  2. 根小屋は、単なる城詰めの家臣団の居住地ではなく、後の御茶屋に継承される居館を中心に、商工業的な宿の住民をも吸引し、都市的な発展を遂げていた可能性がある51)


図10 長榮寺の位置

との見解を示した。また、「根小屋」の場所について、近世に「根小屋」と称されていた長榮寺から東の高台地区と推定した。
一徳斎等宛武田信玄書状写(戦武1480)に「今六日蒲原之根小屋放火之処」52)徳秀斎宛武田信玄書状(戦武1482)に「去六日当城宿放火候キ」とある53)。どちらも同じ内容であるが、前者は「根小屋」、後者は「当城宿」と記されている。表記こそ違うが、伊藤氏の指摘通り、同じ場所を示しているのは間違いない。とすると、「根小屋」=「当城宿」、つまり、「根小屋」は、「当城」(蒲原城)の「宿」であることになり、城の宿としての機能を備えていたと言える。
残念ながら、「根小屋」についての詳しい検討をするスペースは、ここにはない。別稿で詳細に検討する予定である。




4)蒲原城の評価

○先行研究

蒲原城の評価は、研究者によって異なっている。

『図説中世城郭事典』では、「最高地所に本曲輪を置き、南西部の尾根を削平してこの曲輪を構え、西方の川に面して広く三の曲輪を設けるなど、地形を最大限に活用して、腰曲輪を多く付属させており、戦国期の山城としては、大規模で複雑な縄張をもっていることが特徴」と評価し、現況遺構について、「対武田戦を想定しての小田原北条氏による縄張と考えることが妥当であろう」として、北条氏によるものと指摘した54)

その一方、『駿河国蒲原城址発掘調査報告書』では、地形の複雑性や平面を造成する場所が限定されたため、「各曲輪が本曲輪に集中して構築されておらず、むしろ曲輪配置は諸方に散在するかのような分散方式をとっており、むしろ古式の縄張と考えられる」と評価した55)

前田利久氏は、「文献史料を見る限り、蒲原城は今川氏の時代に築かれたものをもとに、北条・武田の両氏が手を加えて改修・拡張したものと思われる。したがって今日残る遺構や縄張りは、武田氏の最終段階の状態を伝えるものと言えよう」と指摘するとともに、いわゆる「武田流」と呼ばれる特徴のある縄張りが見られない点について、「そもそも駿・遠において「武田流」と呼ばれる縄張りを持つ城は、天正期に武田勝頼が西の徳川、東の北条氏に備えて改修したと思われる城」であり、蒲原城のような「武田流」が確認できない城は、「信玄が駿河掌握のために改修したものの、駿河一国を領有したあとは軍事的な役割をひとまず終えた城」であり、「信玄段階の築城法をとどめた城」と位置付けしてもよいのではないだろうか」と評価した56)

関口宏行氏は、「主要曲輪が一方的に延びる尾根上にあり、これらに連動する補強的な曲輪がない。距離をおいて、三ノ曲輪、小峯砦を構築し、小削平地・小曲輪群を配置することにより、防御を堅固にしている個性的な山城である」と評価し、現況遺構について、「山上部分(本曲輪〜三曲輪)は、戦国前期の築城形態を残し、曲輪の規模や位置から、小峯砦や東方の出曲輪は、戦国中期以降の改修ではないか」と指摘した57)

池谷初恵氏は、蒲原城の発掘調査で出土した遺物について、瀬戸美濃は大窯1段階(15世紀末〜16世紀前葉)をピークに大窯3段階まで、貿易陶磁は16世紀前半にピークがあり16世紀中葉まで認められ、初山・志戸呂が出土されていないことから、大窯3段階前半(16世紀第4四半期前半)までに廃城したと指摘し58)

山下孝司氏は、発掘調査成果から、本曲輪を「単なる防御的空間にとどまらず、ハレの場を含んだ公共的な空間」、二曲輪は「生活の中心となるような場」、三曲輪を「居住空間と馬場・駐屯地等が併存した区域と推定され、城のなかでは外縁的な位置づけ」とした。また、遺物の出土状況から、今川氏時代にかなり使用され、武田氏による蒲原城奪取から武田氏の滅亡までの時期に廃城したとした。さらに、蒲原城を「宿城型城郭」とし、「城と宿が一体化した場であり、宿町を取り込んだ城下町的な景観」が形成されていたとした59)

加藤理文氏は、出土遺物に、大窯4段階、及び志戸呂、初山が見られないことから、「蒲原城の機能停止を天正10年とするのが、その存在意義及び出土遺物から妥当と考える」と指摘した60)


このように、蒲原城研究の集大成である『蒲原城跡総合調査報告書』でも、統一した見解が出せていないことが分かる。
各研究者の見解をまとめると、以下の通りとなる。

研究者名蒲原城の特徴廃城時期
『図説中世城郭事典』大規模で複雑な縄張り北条氏
『駿河国蒲原城址発掘調査報告書』古式の縄張り
前田利久氏信玄段階の築城法をとどめた城武田氏
関口宏行氏個性的な山城山上は戦国前期、小峯砦は中期以降
考古学分野では、細部で相違があるものの、16世紀第4四半期、つまり、1575年から1600年の間に廃城したとする見解でほぼ統一されている。




4.まとめ


蒲原城について、これまで述べてきたことをここで整理する。

蒲原城全体の構造を見てみると、丸子城や諏訪原城のような大きな半円状の堀や横堀、興国寺城のような巨大な土塁がない。見どころと言えば、本曲輪と善福寺曲輪の間にある大空堀ぐらいである。お城好きの方々にとって、蒲原城は魅力に欠けるお城である、と言える。
だが、それらの特徴的な遺構がないからといって、「古風である」と述べるのは、単純な発展段階論を当てはめただけの見解であり、再検討の余地があると言わざるを得ない。
文献史料から明らかなように、蒲原城は、今川・北条・武田氏が利用した城である。少なくとも永禄12年までは確実に使用していている。また、蒲原城は、「駿州錯乱」の終結によって、戦略的拠点としての機能も失い、その役目を終えたと見てよい。それに基づいて考えると、現在残っている遺構は、永禄12年以降のものであると考えるのが妥当であろう。特徴があまりない城ではあるが、永禄末期から元亀年間の城は、このぐらいの構造が普通だったのではなかろうか。

ただ、蒲原城を検討するには、あまりにも制約が多い。東名高速道路やミカン畑による地形改変、本曲輪・善福寺曲輪・二曲輪(特に平成9年度)の発掘調査は、当時の発掘調査技術を鑑みても、いい発掘調査だったとは言い難い。また、記録整理もずさんで、発掘調査の技術が発達した、平成16年度の二曲輪発掘調査成果でも、わずかに平面図が掲載されただけであった。蒲原城研究の集大成である『蒲原城跡総合調査報告書』も、統一した見解が出せていない。これが全てであると考える。

現在の蒲原城は、国指定史跡を目指し、毎年シンポジウムを行っていたことを全く感じさせないほど、整備されず、荒れ果てた状態になっている。このまま忘れ去られていくのであろうか。





2014年8月21日 記述終了




1)「記録御用所本古文書」。なお、釈文及び年次比定は、『蒲原城跡総合調査報告書』静岡市教育委員会、2007参照。

2)「西光寺文書」(『静岡県史』資料編7−1502号)。

3)「甲州古文書集」など(『静岡県史』資料編7−1499〜1501)。

4)なお、当時の富士川の流路は、現在のそれとは異なり、現在の田子の浦港方向に乱流し、扇状地を形成していたという(高橋弥「富士川雁堤と徳川幕府初期の治世への影響」(『土木史研究』10、1990、25頁)。

5)「東国紀行」(『静岡県史』資料編7−1716号)。

6)「御感状之写并書翰」(『静岡県史』資料編7−2070号)、「朝比奈文書」(『静岡県史』資料編7−2724号)。

7)「成瀬文書」(『静岡県史』資料編7−2967号)。

8)「上杉家文書」(『上越市史』別編1−635号)

9) 「御感状之写并書翰」(『静岡県史』資料編7−3516号)

10)「土佐国蠧簡集残篇四」(『戦国遺文』武田氏編−1353号)

11)「駿河国新風土記 巻一九」(『戦国遺文 武田氏編』−1396号)

12)「上杉家文書」、「歴代古案 二」(『上越市史』別編1−653・654号)

13)「伊達文書」(『静岡県史』資料編7−3745号)など。

14)「色色証文」(『静岡県史』資料編7−3743号)

15)「上杉家文書」(『上越市史』別編1−765〜768号)

16)「大井家文書」(『戦国遺文 武田氏編』−1428号)

17)「京都市『古裂会目録』平成11年」(『戦国遺文 武田氏編』−1464号)など。

18)「陽雲寺文書」(『戦国遺文 武田氏編』−1471号)

19)「松田仙三氏所蔵文書」(『静岡県史』資料編8−109号)

20)「信玄公宝物館所蔵文書」(『戦国遺文 武田氏編』−1482号)、「古今消息集」(『静岡県史』資料編8−134号)

21)「信玄公宝物館所蔵文書」(『戦国遺文 武田氏編』−1482号)など。

22)「川上茂久氏所蔵文書」(『戦国遺文 武田氏編』−1485号)

23)註22史料。

24)「謙信公諸士来書 九」(『上越市史』別編1−859号)

25)この時期の動向は、黒田基樹「北条氏の駿河防衛と諸城」(同著『戦国期東国の大名と国衆』岩田書院、2001。初出1996)が詳しい。

26)「垪和氏古文書」(『静岡県史』資料編8−342号)

27)註25論文参照。

28)『駿河国蒲原城址発掘調査報告書』蒲原町教育委員会、1991、38・39頁。

29)註28報告書、13頁。

30)『蒲原城−平成8年度範囲確認調査報告書−』蒲原町教育委員会、1997、18・35頁。

31)註30報告書、32・35頁。

32)註28報告書、11頁。

33)『蒲原城−平成10年度範囲確認調査報告書−』蒲原町教育委員会、1999、24・25頁。

34)『蒲原城跡総合調査報告書』静岡市教育委員会、2007、28頁。

35)註34報告書、34・35頁。

36)『蒲原城−平成9年度範囲確認調査報告書−』蒲原町教育委員会、1998、17・22頁。

37)註34報告書、41頁。

38)註36報告書、22頁。

39)註34報告書、46頁。

40)なお、『蒲原城跡総合調査報告書』では、平成16年度の調査成果から、新たに3期に分かれる可能性が明らかとなった」と述べているが、すでに平成9年度の調査成果で、3期に分かれる点が指摘されている。

41)註33報告書、51頁。

42)『日本城郭体系』9、新人物往来社、1982、94頁。『図説中世城郭事典』2、新人物往来社、1987、189頁。

43)『駿国雑誌』(吉見新版)

44)註34報告書、208頁。

45)註34報告書、207頁。

46)註34報告書、199・200頁。

47)註34報告書、175・176頁。

48)見崎鬨雄「武田氏蒲原城攻略後の再利用に関する一視点」(『古城』50、2004年)、土屋比都司「蒲原城の遺構とその合戦に関する考察」(同左)

49)註34報告書、183頁。
なお、書陵部本為和集には、葛山氏広(『静岡県史』資料編7−1202号)・同氏元(『静岡県史』資料編7−1844号)・太原雪斎(『静岡県史』資料編7−1767号)の出自に関する朱筆の書入れがあるが、後世の加筆であることが明らかになった。

50)註7史料。

51)註34報告書、130・132頁。

52)  

53)註21史料。

54)註42著書、189頁。

55)註28報告書、38頁。

56)前田利久「蒲原城の歴史的位置付け」『蒲原城 平成10年度範囲確認調査報告書』蒲原町教育委員会、1999、32頁。のちに『蒲原城跡総合調査報告書』第5章第1節、172・173頁加筆再録

57)註34報告書、97頁。

58)註34報告書、104頁。

59)註34報告書、99〜101頁。

60)註34報告書、195頁。





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