静岡県のお城静岡県のお城一覧>興国寺城




■ 興国寺(こうこくじ)城データ ■
所在地沼津市根古屋
お城が機能した時期16世紀前半から17世紀前半
お城の持ち主今川氏、北条氏、武田氏、徳川氏、
中村氏、天野氏
遺構土塁、堀
オススメ度★★★☆☆


地図はこちら⇒




目次

  1. お城の歴史

    1. 興国寺城の位置


    2. 興国寺城の歴史

      1. 北条早雲旗揚げの城??


      2. 興国寺城の築城


      3. 今川氏時代の興国寺城


      4. 北条氏時代の興国寺城


      5. 武田氏時代の興国寺城


      6. 徳川・豊臣時代の興国寺城


  2. お城のつくり

    1. 興国寺城の構成


    2. 各平坦地の構成




  3. 発掘調査成果

    1. 本丸の発掘調査


    2. 二の丸の発掘調査


    3. 石火矢台の発掘調査


    4. 北曲輪の発掘調査




  4. まとめ




1.お城の歴史


1)興国寺城の位置

興国寺城は、沼津市根古屋に位置し、愛鷹山より延びる台地の先端に立地する。
眼前には、根方(ねがた街道(現在の県道22号)が通り、通路を塞ぐ役割を果たしていた。

興国寺城の東南には、浮島沼(うきしまぬま(浮島ヶ原)と呼ばれる沼があった。現在は、埋め立てられて主に水田になっているため、中世の浮島沼がどの程度の規模かどうかは、手元に資料がなく分からない。もし船の往来が可能であれば、水運という側面からも興国寺城を検討する必要があるだろう1)

南には、のちに東海道53次の13番目の宿となる、原宿(はらしゅくがあった。
弘安2年(1279年)〜弘安3年(1280年)にかけ、鎌倉へ下った阿仏尼(あぶつにによって記された紀行文『十六夜日記』(いざよいにっきに、「原中宿」とあり、13世紀後期には、宿駅として機能していたことが分かる。興国寺城と原宿との距離は近く、関係があった可能性が高い。

このように、興国寺城は宿駅との関係や、水運との関係もあったと考えられ、防御面だけでなく、経済・流通面においても、重要な役割があったのではないだろうか。




2)興国寺城の歴史



@北条早雲の旗揚げの城??


興国寺城は、北条早雲(ほうじょうそううん旗揚げの城として知られる。長享元年(1487)、今川氏親(いまがわうじちかの当主擁立に貢献した北条早雲(※当時は伊勢宗瑞(いせそうずい伊勢早雲(いせそううんと名乗っていた。便宜上北条早雲で統一する)は、興国寺城と富士下方(ふじしもかた十二郷を与えられ、のちの伊豆侵攻への契機となったとされる。

戦国時代が好きな人には、あまりにも有名な話であるが、この話の信憑性はというと、疑問符を付けざるを得ない。理由は、以下の2点である。

  1. 江戸時代に書かれた「北条五代記」(ほうじょうごだいき「今川家譜」(いまがわかふにのみ記されており、同時代史料には記載がないこと(「永享記」(えいきょうき にも同様の記載があるが、その中の「太田道灌事」から北条早雲の記事までは、後から挿入された可能性が高く、信頼性は低い。)。
  2. もし、北条早雲が興国寺城に入ったならば、その立地から見て、その後も使用されていておかしくない。にも関わらず、16世紀中頃まで、その形跡が全くないこと。

研究者の中でも、疑問を抱く方々がいる。黒田基樹氏は「乱勃発以前に、北条氏の同地域に対する支配権の行使は全く確認されないことからみれば、直ちにその要因をそうした(筆者註:伊勢宗瑞の領有)「意識」に還元させるのは、事態の本質を失うおそれがある」と述べている2)
 また、家永遵嗣氏は「義元による工事までは『寺としての興国寺』が常の姿で、早雲は城としての加工を加えて利用していたと思われ」、「興国寺城は城郭としての整備を始めたばかりの状態だったと思われます。」と述べ、「早雲時代には善得寺を純粋な寺院として用いてい」たと述べている3)

私は、そもそも北条早雲が、駿河国東部にいたという前提自体、再考するべきだと思っている。富士下方十二郷・興国寺城の拝領は、全くの嘘だったのではないだろうか?
駿府にいて今川氏親を後見した方が、早雲の権力が高まるし、氏親にとっても、中央とパイプのある早雲は、手元に置きたいところだろう。早雲は、今川氏親の遠江・三河侵攻のほとんどに従軍している。氏親の早雲に対する信頼の高さがこの点からうかがえないだろうか?
また、史料から見ても、早雲が富士下方十二郷を領した形跡が、全く見当たらない点も気になる。もし与えられていたのならば、何らかの形で残る可能性が高いのだが……。


<2012年8月7日追記>

黒田基樹氏は、同著『戦国北条氏五代』(戒光洋出版、2012年)の中でこの問題に触れている。
黒田氏は、早雲が富士下方と興国寺城を与えられたことについて、その時期、早雲が京都で活動しており、整合性が見られないこと、その年齢の若さとも相まって多分に伝説性が感じられ、「史実としては大いに疑問が残る」(16頁)と述べている。
その上で、富士下方と興国寺城拝領の所伝が事実ならば、長享(ちょうきょう元年(1487)のものとみるほううが妥当であること、興国寺城の築城は天文18年(1549)のことであり、同城ではなく、善得寺(ぜんとくじ城を拝領したと考えられると述べている(16・17頁)。

<追記終了>



A興国寺城の築城


では、興国寺城は、いつ築城されたのか?それがうかがえる史料が残っている。重要だと思うので、全文を引用する。


駿河国阿野庄井出郷内真如寺々領・山林・門前・敷地等之事

右、善得寺末寺興国寺敷地田畠以下、構城☆之間、以蓮光寺道場断絶、為其改替改寺号名真如寺、寺領田地壱町四反、
分米弐拾四俵、 畠九反分銭三貫七百余、任興国寺之例、為善得寺末寺、永寄進不可有相違、弥可専修造勤行状、如件、
天文十八年二月廿八日、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、治部太輔(花押)
真如寺、、、、、、、、、、、、、、、、、、、


「諸州古文書二十四」『静岡県史』資料編7−1922
(※文中の☆は、土へんに郭)
【本文の現代語訳】
駿河国阿野庄の井出郷の中にある、真如寺の寺領、山林、門前、敷地について。
これは、善得寺の末寺である興国寺の敷地と田畑などに、城郭を構えるので、蓮光寺道場が断絶したことにより、(興国寺の敷地などの)代わりとして、名を真如寺に改め、寺領田地1町4反(米に換算して24俵)、畑9反(銭に換算して3貫700文ほど)を、興国寺の時と同様、善得寺の末寺として、永久に寄進することを保証する。ますます修造勤行をすること。

この史料は、今川義元(いまがわよしもとが、興国寺から寺号を替えた真如寺(しんにょじに対し発給された判物である。興国寺の敷地と田畑を「城郭」にしたことが分かる。つまり、天文18年(1549)以前には、興国寺という寺院があったことが分かり、興国寺城は、興国寺の跡地に建てられたものと考えられる。

さらに、天文21年正月23日付で、今川義元は、秋山三郎左衛門尉(あきやまさぶろうざえもんのじょうの功績を賞す判物を発給している(「秋山文書」『静岡県史』資料編7−2096)。その中に、「興国寺取立之刻」(興国寺を取り立てた際)という文言がある。
「取立」は、今でいう築城と同じ意味で使われていた。例えば、「其上号有木地取立」(その上、有木という名の地を取り立てて)(「柿崎雅仁氏所蔵」『上越市史』1−1323)のように使われた(戦国時代において、「築城」という用語が使われた形跡は、今のところ見つかってない…)。

史料には、「興国寺取立之刻」とあるが、具体的にいつ興国寺城が「取立」られたか記されていない。ただ、「取立」られた時期がそれほど前とは思えない。もし、1487年に、すでに、興国寺城があったとするならば、60年以上前のことを取り上げて、功績を賞したことになる。さすがにこれは考えにくい。

最後に、考えなければならないのは、「河東一乱(かとういちらん」である。
「河東一乱」とは、天文6年(1536)から同14年(1545)に起こった、今川義元と北条氏綱(ほうじょううじつな氏康(うじやすとの争いである(詳しくは「河東一乱の経過」を参照)。この間、駿河国のうち、富士川より東側は、北条氏の占領地となった。
大規模な抗争であったが、その際、興国寺城が使われた形跡が全くないのである。これは、この時期、興国寺城がなかったからではないだろうか?

以上の2点の史料及び「河東一乱」の様子から、私は、興国寺城が、北条早雲が拝領した城ではなく、「河東一乱」後の1545年以降に構築されたと考える(「諸州古文書二十四」『静岡県史』資料編7−1922の内容からすれば、天文19年築城と断定してもいいかと思う。2012年8月7日追記)。
その目的は、富士川以東の防衛と、同地域の支配のための拠点であったと考えられる。



B今川氏時代の興国寺城


その後、興国寺城は、当時の史料に度々登場していく。まずは、今川氏時代の興国寺城について、史料をもとに検討する。

先に述べた通り、興国寺城は、富士川以東の防衛と、同地域の支配のための拠点であったと考えられる。今川義元は、天文19年(1550)2月に興国寺城の普請を見分(けんぶん(視察みたいなもの)している4)。同城を、義元が重要視していたことがうかがえよう。
その後は、富士川以東、特に駿東郡(当時は駿河郡)の給人(きゅうにん(領地を持っている武士のこと)に対し、知行を与える一方、興国寺城の城番や普請といった軍役を課した5)

このように、今川氏時代の興国寺城は、城主を置かず、城番制を敷き、給人が持ち回りで守備をしていたと考えられる。



C北条氏時代の興国寺城


ところが、永禄11年(1568)12月、武田信玄(たけだしんげんが、駿河国に侵攻したことで、興国寺城周辺の環境は一変する。
今川義元の跡を継いだ今川氏真(いまがわうじざねは、本拠地である駿府を捨て、遠江国懸川城(かけがわじょうの朝比奈氏のもとへ逃げ、代わりに武田信玄が駿府に入った。しかし、北条氏の当主、北条氏康は、武田信玄と協調する戦略を取らず、今川氏真に味方し、救援するために北条氏政(ほうじょううじまさらを駿河国に出陣させた。
これにより、形勢は逆転し、後背を突かれた形となった武田軍は、興津城(横山城)を確保して、興津川を挟み、北条氏軍と対陣することになる。いわゆる「駿州錯乱(すんしゅうさくらん」である(詳しくは「駿州錯乱」を参照)。

この際、由良成繁(ゆらなりしげ上杉輝虎(うえすぎてるとら(のちの上杉謙信)家臣松本景繁(まつもとかげしげに送った覚書には、北条軍が、「かつら山要害」と「こうこく寺と申地利」を占拠したと報じられている6)
「かつらやま要害」は葛山城を、「こうこく寺と申地利」は興国寺城を指すと考えられる。興国寺城は、北条氏によって占拠されたことが分かる。
北条軍は、北条氏政が伊豆国三島に陣を置き、駿河国蒲原城(かんばらじょう・興国寺城・長久保城(ながくぼじょう吉原城(よしわらじょうにも兵を入れ、薩た山(さったやま峠には「陣城」を築き、守備を固めた7)。大宮城には今川氏家臣の富士兵部少輔(ふじひょうぶのしょう(のちの富士信忠)が守っており、この時点で、北条氏は、薩た山以東を確保し、武田信玄を窮地に追い込むことに成功する。
なお、この頃、興国寺城には、垪和氏続(はがうじつぐが在城していた8)

しかし、信玄は、甲斐国に無事戻り、体勢を立て直すと、永禄12年(1569)7月に大宮城を攻略、同年12月には、蒲原城を攻略する。北条氏は、新たに築城した深沢城北条綱成(ほうじょうつなしげらを置き、興国寺城には、垪和氏続を「城主」に任命し、同城の守備を一任した9)
こうして、興国寺城には垪和氏続が最高責任者として配属される。氏続は、『小田原衆所領役帳』によると、知行役高総計768貫文を有す北条氏の重臣である。しかし、その氏続をもってしても、興国寺城の維持には費用が不足したようだ。
同年11月、北条氏は、武田氏との合戦の間、岡宮浅間社(おかみやせんげんしゃ領と朝比奈左馬允(あさひなさまのじょうの知行分を興国寺城の城領とすると命じた10)。さらに、翌年(1570)4月には、同心の給地として与えた、相模国千束・七木の地を、興国寺城在城につき、氏続に与え11)さらにその翌年には、知行役銭を免除されている12)

これらは、氏続の負担増大に対し、北条氏が支援していたことを示す。城の維持は、支援を得なければならないほど、莫大な費用がかかったのである。また、氏続以外にも江戸頼忠(えどよりただ江戸頼年(えどよりとし大平右衛門尉(おおひらえもんのじょう・太田十郎・笠原助三郎が、在番衆として、交替で興国寺城を守備していた13)。彼らの負担も大きなものであっただろう。

このように、厳しい状況ではあったが、氏続らは、武田軍の侵攻を北条氏に報告し14)元亀2年(1571)正月には、自ら太刀を振るって武田軍の攻撃を退け15)、興国寺城を死守した。
しかし、翌年正月、北条氏と武田氏が和睦するに及び、興国寺城は武田氏に接収され16)、以後、武田氏が同城を管理することとなった。



D武田氏時代の興国寺城


武田氏時代の興国寺城は、依然、富士川以東における重要拠点として位置づけられていた。同城には奉行がおかれ、富士山本門寺と西山本門寺との争いを調停している17)

天正7年(1579)、武田氏と北条氏が再び対立すると、黄瀬川沿いに多くの城が築かれた。防御の中心はそちらに移ったものの、興国寺城の奉行が、富士山本門寺と西山本門寺との争いを再び調停しており18)、興国寺城は、依然、支配拠点として機能していたことがうかがえる。
天正10年(1582)、織田信長が信濃国に侵攻したことにより、駿河国の武田軍は総崩れとなり、多くの城が自落(戦わずに城を捨てること)し、北条氏の手に渡った。興国寺城も同様の道をたどったと思われる。
しかし、徳川家康が駿河国を領有したことにより、まもなく興国寺城は徳川氏のものとなった。



E徳川・豊臣時代の興国寺城


武田氏が滅亡して3ヶ月後の天正10年(1582)6月、織田信長が本能寺で倒れると、旧武田領をめぐり、徳川氏・上杉氏・北条氏などが争いを始めた。北条氏と徳川氏は、甲斐国で長期対陣に及ぶなど、対立を深めていく。

駿河国においても、その対立の余波が広がり、国境付近は緊張状態となった。興国寺城も拠点の1つとして機能し、三枚橋城とともに、諸事油断しないように、との飛脚を派遣されている19)
同年10月、徳川氏と北条氏は和睦し、徳川家康の娘が北条氏直(ほうじょううじなおに嫁いだ。これによって、緊張状態は解放されたが、興国寺城は、その機能を終えることなく、機能し続けた。
同年12月に、渡辺次郎兵衛・土橋大蔵丞に、興国寺領の一部を与えていることからそれがうかがえる20)

興国寺城の城主は、江戸時代中期に成立した『武徳編年集成』によれば、牧野康成・松平清宗の名が記されているが、同時代史料ではないため、信頼性は薄い。
信頼性の高い史料でうかがえるものとして、『家忠日記』に、「興国寺松平玄蕃出仕ニ被越候」とあり、興国寺城にいる松平玄蕃が出仕のため赴いたことが記されている。松平玄蕃とは、松平清宗(まつだいらきよむねのことであり、このことから、松平清宗が興国寺城にいたことが分かる21)。おそらく彼が城主なのではないだろうか。

天正18年(1590)、北条氏が滅亡すると、徳川家康は関東に移り、代わって駿河国には中村一氏(なかむらかずうじが入った。その際、興国寺城には、一氏の家臣川毛惣重次が入ったというが22)、史料の出典が明示されておらず、推測の域を出ない。

関ヶ原合戦後、慶長6年(1601)に天野康景(あまのやすかげが興国寺城に入るが、慶長12年、康景は出奔し、その際興国寺城も破却された。

ここに、約60年にわたって、富士川以東の拠点として機能した興国寺城は、その役割を終えたのであった。







2.お城のつくり


1)興国寺城の構成

興国寺城の特徴は、本丸の周囲をめぐる非常に高い土塁と、その北を遮る非常に深い堀切にある。土塁の北側には天守台と伝えられる平場があり、現在でも建物の礎石を見ることができる。

その興国寺城は、図1のように、本丸・二の丸・三の丸と、北曲輪から主に構成されているという。
しかし、江戸時代前期に成立した、「浅野文庫蔵諸国古城之図」では、本丸・二の丸・三の丸の、計3つのみ平坦地として描かれており、北曲輪については、平坦地として扱っていない。興国寺城の城内の範囲が、北曲輪を含むのか含まないのか、これが第1の論点となるだろう。

また、前述したように、興国寺城は、今川氏や北条氏、武田氏といった有力な戦国大名が関わった城であった。そのため、現在残っている遺構が、どの戦国大名の影響を強く受けたのかについて、高い関心が集まった。
例えば、萩原三雄氏・数野雅彦氏は、「横矢掛けを意識した屈曲をもつことから、北条氏修築時の掘削と判断される」と述べ、大空堀が北条氏によって整備されたものとしている23)

このように、大空堀の存在などから、北条氏の築城術が見られる城とされてきた。つまり、現在残っている遺構は、北条氏の影響が強いと指摘されたのである。これが第2の論点である。

以上、興国寺城全体の様子について簡単に説明した、論点は、

  1. 城内の範囲に、北曲輪は入るのか?
  2. 果たして、北条氏の影響が色濃く残る城なのか?
この2点である。



2)各平坦地の構成

興国寺城は、宅地開発などにより地形が改変され、各平坦地の境目が分かりづらくなっている。そのため、各平坦地の規模は、推測の域を出ない。ご容赦いただきたい。
幸い、近世において描かれた興国寺城の城絵図が残されている。ここでは、その中で、江戸前期、17世紀後半に成立したとされる、「浅野文庫蔵諸国古城之図」(以下「諸国古城之図」と略す)を参考に、興国寺城の各平坦地の構成について述べることとする24)


本丸

『沼津市史』によると、本丸は、土塁を含め最大幅100m、南北130mの規模、とある。
土塁は、本丸の南側を除く三方を囲んでいる。高さは10mくらいだろうか。これだけ高い土塁を設けている城は、全国的にも珍しい。
「諸国古城之図」は、この状況について、「土居後高ニ有之、サレトモ中ノ見入ルヤウニ成高ミハ少モ無之」と記している。つまり、興国寺城は、後ろ(北側)が高い地であるが、中が見えるような高いところはなかったのである。高い土塁を設けた理由は、城の内部を見せないためであったと考えられる。

北側土塁上には、東西23m、南北15m程度の平坦地が設けられており、天守台と伝えられている。平坦地の南側には、石垣が残存している。石垣は、織田・豊臣氏が築いた城に見られる特徴であるが、興国寺城の石垣は、基本的に未加工で、石と石との間も広い。このため、萩原・数野両氏は、石垣が設けられた年代について、「天正10年以後の徳川氏の可能性を含め、幅を広げて検討する必要がある」と述べている25)
また、平坦地上には、規則的に設けられた石が表面上に姿を現しており、同地に礎石建物があったことがうかがえる。

なお、「諸国古城之図」には、二の丸から本丸へ入る入口の他に、本丸の南東隅に、「カクシ口」と記された入口が描かれている。「カクシ口」とは隠し口のことだろう。脱出のために設けられた入口なのだろうか?


二の丸・三の丸

二の丸と三の丸については、宅地開発などにより、一部に平坦地が残るのみで、土塁などの遺構は見られない。
しかし、「諸国古城之図」では、二の丸・三の丸の四方には土塁が描かれており、かつては土塁が存在していたことがうかがえる。また、本丸と二の丸の間と、二の丸から三の丸の間には空堀が、三の丸から二の丸への入口は、「枡形(ますがたノアト」が描かれており、興国寺城の廃城当時の様子を知ることができる。


本丸西側土塁上より本丸を見る



北曲輪から本丸を見る。標高は北曲輪の方が高いのだが、土塁のため、本丸内部の様子は、ここからでは何もうかがえない。





伝天守台の石垣


北曲輪

本丸から大空堀を隔てた北側にも平坦地がある。後述する発掘調査報告書では、当該平坦地を北曲輪と呼称している。南北約30m、東西約50mほどの広さを持つ。
平坦地とはいっても高低差があり、土地をならした形跡がなく、私は、自然地形に近い感じを抱いた。
「諸国古城之図」では、本丸の北側に平坦地は描かれておらず、「此間一面ニ原」とあり、原であったと記されている。しかし、本丸より「十二・三丁」(約1.5km)ほどのところに堀切が描かれている。興国寺城北側の尾根筋からの侵攻を防ぐために設けられたものと考えられるが、現在は茶畑になっており、遺構は残っていない。


興国寺城の城外施設について

「諸国古城之図」には、興国寺城の左右の山(というより尾根?)沿いに「侍屋敷跡」があったと記されており、興味深い。萩原・数野両氏は、興国寺城から西に尾根1つ隔てた、現在本法寺があるところに、幅の狭い土塁が残っていることから、同寺一帯が「侍屋敷」であった可能性を指摘している26)







3.発掘調査成果




興国寺城は、昭和57年(1982)より発掘調査が始まり、平成25年(2013)をめどに、現在も発掘調査が続いている。
現在まで行った調査は、以下の通りである。

年度調査範囲
昭和57年(1982)伝天守台跡・伝船着場跡
平成11年(1999)清水曲輪
平成12年(2000)本丸・二の丸確認調査
平成13年(2001)北曲輪確認調査
平成14年(2002)北曲輪・清水曲輪・石火矢台・本丸・二の丸確認調査
平成15年(2003)本丸本調査
平成16年(2004)本丸・北曲輪本調査
平成17年(2005)本丸・石火矢台本調査
平成18年(2006)二の丸本調査
平成19年(2007)北曲輪本調査
平成20年(2008)北曲輪本調査
平成21年(2009)

調査期間が長く、調査範囲も広いため、ここでは、年度ごとの成果ではなく、各平坦地ごとに分けて、調査成果を述べることとする。
また、下記に記す発掘調査成果は、沼津市教育委員会が実施した現地説明会の資料と、山本恵一氏の論考に拠っている。あわせて参照いただきたい。




1)本丸の発掘調査

本丸は、平成12年度に確認調査を行った上で、平成15年度から17年度にかけ、本調査を実施し、城門跡・排水溝・土橋・空堀などの遺構を検出した。なお、遺構の検出位置については、図2を参考にしていただきたい。

城門跡

城門跡は、本丸の南側中央で検出された。1m前後の大石が6点検出され、その配置から、柱の礎石列で あることが確認された。礎石の配置から、城門は右手に潜り戸を持つものであったと推測されている。

排水溝跡

排水溝は、本丸の中央部を、南北に縦断する形で検出された。総延長は60m程だが、排水溝の石が抜かれた跡があることから、さらに北側に延びる可能性がある。
本丸内で溜まった水は、この排水溝を通して排水するようになっており、排水場所は、現在のところ、城門跡北側の溝と、城門跡南側にある空堀の2箇所で確認されている。特に、空堀への排水は、土橋の中間でL字状に曲げ、東側に排水するように意図的に配置されている。このことから山本氏は、「明らかに土橋を境とする限定した排水が行われているといえる」と述べている。つまり、この排水溝は、本丸限定のものであって、二の丸以下には使われていない、ということである。興国寺城の城域を考える際に参考となる可能性があるだろう。

空堀・土橋跡

本丸と二の丸の境において、空堀と土橋を検出した。
山本氏の論文によると、まず、空堀であるが、幅約13m、深さは本丸側で7m、二の丸側で3mで、堀底は箱形である。次に、土橋であるが、空堀を掘る際に削り残す形で造られ、幅が5m〜7mである。ただし、土橋西側に版築土が認められることから、当初は幅がさらに狭かったものと推測されている。
本丸への入口は、空堀を掘り、土橋を設けることで、侵入経路が狭くなってはいるが、真っすぐ直線の進路で本丸に侵入できるようになっており、入口の工夫は、あまりうかがえられない。
この点については、「諸国古城之図」においても、なんら工夫のない、直線の通路として描かれている同様に描かれている。
しかし、土橋を渡ってすぐ城門があるわけではなく、約10m離れている。このことから、土橋と城門跡の間に、敵の侵入を阻止する工夫(例えば枡形とか)がなされていた可能性が考えられないか、と私は考えている。

その他の遺構

その他、本丸北側中央において、石列が検出された。このことから、建物がここに存在したと考えられる。



2)二の丸の発掘調査

二の丸は、平成12年度に確認調査を行なった上で、平成18年度に本調査を実施し、いわゆる三日月堀と呼ばれる堀と、二の丸の造成状況が確認された。なお、遺構の検出位置については、図3を参考にしていただきたい。

三日月堀

三日月堀は、本丸と二の丸の境において検出された、空堀のすぐ南で検出された。
山本氏の論文によると、規模は、長さ約37.8m、最大幅約4.3m、堀底幅0.8m、深さ約3.8mで、埋められた土の堆積状況から、北側から南側へ土砂を流し込む形で、堀が埋められたことが分かっている。堀底近くから擂鉢(すりばち)の破片などが出土した。出土遺物の年代は大窯3期(1560年から1590年)と推測されている。
このことから、沼津市教育委員会では、「おそらく三日月堀の北側には土塁があり、これら埋土(まいど)は土塁を崩したものと理解できます。したがって、ここが丸馬出となってこの三日月堀の南側は城外域となっていたと考えられます。」と述べ、堀が設けられた時期を、武田氏が保有していた段階と推測している。
確かに、丸馬出は、半円形の土塁の外側にそって堀が掘られることが多く、丸馬出と推測した沼津市教育委員会の考察は、的を得たものと考えられる。丸馬出は、武田氏と徳川氏が主に設けた防御施設で、出土遺物の年代からみて、沼津市教育委員会が推測するように、武田氏が設けたものと見てよいであろう。
しかしながら、丸馬出の南側は、城外域であったのだろうか?丸馬出は、城内と城外の境に設けられることが多いが、本丸と二の丸の境に丸馬出が設けられた深沢城のように、城内にも丸馬出が設けられる事例もある(右図「深沢城図」の馬出Aのところ)。三日月堀の南側を城外域と判断するのは、性急なのではないだろうか?

今後、興国寺城の発掘調査が進展した上で、改めて考察するべきだと私は考える。


図3 興国寺城二の丸の発掘調査成果



3)石火矢台の発掘調査

本丸の東に位置する石火矢台は、平成14年度に確認調査を行なった上で、平成17年度に本調査を実施し、土塁および空堀が確認された。なお、遺構の検出位置については、図4を参考にしていただきたい。

土塁

発掘調査の結果、石火矢台は、土塁によって囲まれていることが判明した。また、石火矢台の西側中央において、北側から延びる土塁と、南側から延びる土塁が交差する位置が確認された。南北の土塁は、一直線上に位置せず、やや食い違うように交差している。ここが石火矢台に入る入口であろうか?
ちなみに、「諸国古城之図」でも、石火矢台の位置に平坦地が描かれている。平坦地に名称は付けられていないが、本丸との境に、南北の土塁が食い違いに交差する場所が描かれ、そこに「カクシ口」があったと描かれている。今回の調査で判明した、土塁の交差する地点が、「カクシ口」なのだろうか?


図4 興国寺城石火矢台の発掘調査成果

空堀

空堀は、石火矢台の南端、二の丸との境において検出された。平面的には、中央部が膨らんだ弧を描く三日月形で、現地説明会資料によると、堀底は平坦な箱堀、堀幅上端の幅約13m、底部約2m、深さは約3mである。
特徴的なのは、堀底から石火矢台の土塁頂上までの高さで、比高差は約11m、ビル3階分の高さがある。これを登るのは不可能に近いだろう。
なお、論文や現地説明の資料には記されていないが、この空堀は、本丸と二の丸の境にある空堀につながっていくものと私は考える。



4)伝天守台の発掘調査

工事中です……m(_ _)m


図5 興国寺城伝天守台の発掘調査成果



5)北曲輪の発掘調査

本丸の東に位置する石火矢台は、平成13年度に確認調査を行なった上で、平成19年度・20年度に本調査を実施し、空堀およびピット群(土坑あるいは方形竪穴。用途や性格は不明とのこと)が確認された。なお、遺構の検出位置については、図6を参考にしていただきたい。

空堀

北曲輪の発掘調査において、空堀は計3ヶ所検出された。ここでは、その内2ヶ所について述べることとする。
まず、北曲輪北端で検出された空堀について述べる。現地説明会資料によると、堀底が平らな箱堀で、堀幅は約11mm、深さは約5.5mの規模であるという。空堀が設けられた年代については、資料に記されていない。


図6 興国寺城北曲輪の発掘調査成果



なお、空堀は土橋によって左右に切断されている。土橋は、長さ約11m、幅推定4mほどである。土橋の存在から、ここに入口があった可能性が高い。特に入口に工夫は見られず、本丸南端の土橋同様、外側に馬出があった可能性が考えられる。

次に、空堀2である。空堀2は、大空堀のすぐ北側で検出され、現地説明会資料によると、東西の長さ約80m、堀幅約8mの規模で、深さは5〜6mくらいと予想されるという。
また、埋められた土の堆積状況から、大空堀底部にある岩盤と思われる石塊が、空堀2に大量に混入していることから、大空堀を掘削したときに埋められたと推測されている。このことから、大空堀は、最初から興国寺城に設けられていたのではなく、当初は空堀2が設けられ、後から大空堀が設けられたことが分かる。

北曲輪の造成

発掘調査の結果、北曲輪の造成時期についても分かってきた。現地説明会資料によると、北曲輪は、空堀2を埋めて造成されたという。また、16世紀末期から17世紀初めに比定される遺物が出土したことにより、北曲輪は、豊臣氏あるいは徳川氏が政権を握った時期に造成されたことが分かった。
しかしながら、北曲輪において、礎石・柱穴などは、確認されていない。このことから、北曲輪には、建物がなかった可能性が考えられる。




4.おわりに


興国寺城は、「北条早雲旗揚げの城」という内容に疑問符がつくものの、今川氏・北条氏・武田氏・中村氏・徳川氏といった有力な戦国大名が、こぞって重要な拠点と認識し、整備・維持してきた点で、静岡県下に誇る屈指の城だといえる。

発掘調査の進展により、今川氏・北条氏・武田氏の時の興国寺城は、現在の姿と大きく異なることが明らかになってきた。圧倒的な存在感を誇る大空堀は、当時存在しなかったし、ビル3階分にあたる土塁も、当時はあったかどうか疑問である。その代わり、丸馬出が設けられ、入口の防御を固めていたことも分かった。
今後も興国寺城では発掘調査が続くため、さらに様々な成果があがってくると思われる。興国寺城の全容が明らかになることを大いに期待している。

1)なお、上松四郎兵衛は、原駅に船1艘を有しており、船にかけられた税を免除されている(天文17年4月9日付今川義元朱印状写「渡辺文書」『静岡県史』資料編7−1899)。原駅に船があったことをうかがわせる史料である。

2)黒田基樹「駿河葛山氏と北条氏」(同著『戦国大名領国支配構造』岩田書院、1997年、411頁。)。なお、「河東一乱」については、「北条氏の河東地域領有とはいっても、その実態は葛山氏の北条氏への従属によって成されたもの」と述べている(同著、403頁)。

3)黒田基樹「北条氏の駿河防衛と諸城」(『武田氏研究』17、1996年、22頁)。

4)「高白斎記」(『静岡県史』資料編7−1972)。

5)「判物証文写附二」(『静岡県史』資料編7−1984・2176など)

6)「上杉家文書」(『上越市史』別編1−635)

7)「歴代古案一」(『上越市史』別編1−643)、「矢部文書」(『静岡県史』資料編7−3604)

8)「垪和氏古文書」(『静岡県史』資料編7−3762)

9)「垪和氏古文書」(『静岡県史』資料編8−80)

10)「岡宮浅間神社文書」(『静岡県史』資料編8−113)

11)「垪和氏古文書」(『静岡県史』資料編8−194)

12)「垪和氏古文書」(『静岡県史』資料編8−342)

13)「大平文書」(『静岡県史』資料編8−213)

14)「松田仙三氏所蔵文書」(『静岡県史』資料編8−109)、「上杉家文書」(『上越市史』別編1−841・909)、

15)「垪和氏古文書」(『静岡県史』資料編8−292・293)

16)「中村不能斎採集文書 九」(『戦国遺文』武田氏編−1769)

17)「北山本門寺文書」(『戦国遺文』武田氏編−3526)

18)「北山本門寺文書」(『戦国遺文』武田氏編−3575)

19)「譜牒余録 三十三」(『静岡県史』資料編8−1560)

20)「渡辺昭男家文書」、「巨摩郡古文書」(『静岡県史』資料編8−1604・1605)

21)『家忠日記』(『続史料大成』20、71頁)

22)『沼津市史』資料編考古、2002年、548頁

23)『沼津市史』資料編考古、2002年、552頁

24)矢守一彦編『浅野文庫蔵諸国古城之図』(新人物往来社、1981年、254頁)。これ以降、「諸国古城之図」の説明は、この頁を参照のこと。

25)『沼津市史』資料編考古、2002年、552頁

26)『沼津市史』資料編考古、2002年、552頁



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