所在地 | 沼津市根古屋 |
お城が機能した時期 | 16世紀前半から17世紀前半 |
お城の持ち主 | 今川氏、北条氏、武田氏、徳川氏、 中村氏、天野氏 |
遺構 | 土塁、堀 |
オススメ度 | ★★★☆☆ |
目次 |
1.お城の歴史 |
1)興国寺城の位置 |
興国寺城は、沼津市根古屋に位置し、愛鷹山より延びる台地の先端に立地する。 興国寺城の東南には、 南には、のちに東海道53次の13番目の宿となる、 このように、興国寺城は宿駅との関係や、水運との関係もあったと考えられ、防御面だけでなく、経済・流通面においても、重要な役割があったのではないだろうか。 |
2)興国寺城の歴史 |
@北条早雲の旗揚げの城?? |
興国寺城は、 戦国時代が好きな人には、あまりにも有名な話であるが、この話の信憑性はというと、疑問符を付けざるを得ない。理由は、以下の2点である。
研究者の中でも、疑問を抱く方々がいる。黒田基樹氏は「乱勃発以前に、北条氏の同地域に対する支配権の行使は全く確認されないことからみれば、直ちにその要因をそうした(筆者註:伊勢宗瑞の領有)「意識」に還元させるのは、事態の本質を失うおそれがある」と述べている2)。 私は、そもそも北条早雲が、駿河国東部にいたという前提自体、再考するべきだと思っている。富士下方十二郷・興国寺城の拝領は、全くの嘘だったのではないだろうか? <2012年8月7日追記> 黒田基樹氏は、同著『戦国北条氏五代』(戒光洋出版、2012年)の中でこの問題に触れている。黒田氏は、早雲が富士下方と興国寺城を与えられたことについて、その時期、早雲が京都で活動しており、整合性が見られないこと、その年齢の若さとも相まって多分に伝説性が感じられ、「史実としては大いに疑問が残る」(16頁)と述べている。 その上で、富士下方と興国寺城拝領の所伝が事実ならば、 <追記終了> |
A興国寺城の築城 |
では、興国寺城は、いつ築城されたのか?それがうかがえる史料が残っている。重要だと思うので、全文を引用する。 駿河国阿野庄井出郷内真如寺々領・山林・門前・敷地等之事 右、善得寺末寺興国寺敷地田畠以下、構城☆之間、以蓮光寺道場断絶、為其改替改寺号名真如寺、寺領田地壱町四反、 「諸州古文書二十四」『静岡県史』資料編7−1922
(※文中の☆は、土へんに郭) 【本文の現代語訳】 駿河国阿野庄の井出郷の中にある、真如寺の寺領、山林、門前、敷地について。 これは、善得寺の末寺である興国寺の敷地と田畑などに、城郭を構えるので、蓮光寺道場が断絶したことにより、(興国寺の敷地などの)代わりとして、名を真如寺に改め、寺領田地1町4反(米に換算して24俵)、畑9反(銭に換算して3貫700文ほど)を、興国寺の時と同様、善得寺の末寺として、永久に寄進することを保証する。ますます修造勤行をすること。 この史料は、 さらに、天文21年正月23日付で、今川義元は、 史料には、「興国寺取立之刻」とあるが、具体的にいつ興国寺城が「取立」られたか記されていない。ただ、「取立」られた時期がそれほど前とは思えない。もし、1487年に、すでに、興国寺城があったとするならば、60年以上前のことを取り上げて、功績を賞したことになる。さすがにこれは考えにくい。 最後に、考えなければならないのは、「 以上の2点の史料及び「河東一乱」の様子から、私は、興国寺城が、北条早雲が拝領した城ではなく、「河東一乱」後の1545年以降に構築されたと考える(「諸州古文書二十四」『静岡県史』資料編7−1922の内容からすれば、天文19年築城と断定してもいいかと思う。2012年8月7日追記)。 |
B今川氏時代の興国寺城 |
その後、興国寺城は、当時の史料に度々登場していく。まずは、今川氏時代の興国寺城について、史料をもとに検討する。 先に述べた通り、興国寺城は、富士川以東の防衛と、同地域の支配のための拠点であったと考えられる。今川義元は、天文19年(1550)2月に興国寺城の普請を このように、今川氏時代の興国寺城は、城主を置かず、城番制を敷き、給人が持ち回りで守備をしていたと考えられる。 |
C北条氏時代の興国寺城 |
ところが、永禄11年(1568)12月、 この際、 しかし、信玄は、甲斐国に無事戻り、体勢を立て直すと、永禄12年(1569)7月に大宮城を攻略、同年12月には、蒲原城を攻略する。北条氏は、新たに築城した深沢城に これらは、氏続の負担増大に対し、北条氏が支援していたことを示す。城の維持は、支援を得なければならないほど、莫大な費用がかかったのである。また、氏続以外にも、 このように、厳しい状況ではあったが、氏続らは、武田軍の侵攻を北条氏に報告し14)、元亀2年(1571)正月には、自ら太刀を振るって武田軍の攻撃を退け15)、興国寺城を死守した。 |
D武田氏時代の興国寺城 |
武田氏時代の興国寺城は、依然、富士川以東における重要拠点として位置づけられていた。同城には奉行がおかれ、富士山本門寺と西山本門寺との争いを調停している17)。 天正7年(1579)、武田氏と北条氏が再び対立すると、黄瀬川沿いに多くの城が築かれた。防御の中心はそちらに移ったものの、興国寺城の奉行が、富士山本門寺と西山本門寺との争いを再び調停しており18)、興国寺城は、依然、支配拠点として機能していたことがうかがえる。 |
E徳川・豊臣時代の興国寺城 |
武田氏が滅亡して3ヶ月後の天正10年(1582)6月、織田信長が本能寺で倒れると、旧武田領をめぐり、徳川氏・上杉氏・北条氏などが争いを始めた。北条氏と徳川氏は、甲斐国で長期対陣に及ぶなど、対立を深めていく。 駿河国においても、その対立の余波が広がり、国境付近は緊張状態となった。興国寺城も拠点の1つとして機能し、三枚橋城とともに、諸事油断しないように、との飛脚を派遣されている19)。 興国寺城の城主は、江戸時代中期に成立した『武徳編年集成』によれば、牧野康成・松平清宗の名が記されているが、同時代史料ではないため、信頼性は薄い。 天正18年(1590)、北条氏が滅亡すると、徳川家康は関東に移り、代わって駿河国には ここに、約60年にわたって、富士川以東の拠点として機能した興国寺城は、その役割を終えたのであった。 |
2.お城のつくり |
1)興国寺城の構成 |
興国寺城の特徴は、本丸の周囲をめぐる非常に高い土塁と、その北を遮る非常に深い堀切にある。土塁の北側には天守台と伝えられる平場があり、現在でも建物の礎石を見ることができる。 その興国寺城は、図1のように、本丸・二の丸・三の丸と、北曲輪から主に構成されているという。 また、前述したように、興国寺城は、今川氏や北条氏、武田氏といった有力な戦国大名が関わった城であった。そのため、現在残っている遺構が、どの戦国大名の影響を強く受けたのかについて、高い関心が集まった。 このように、大空堀の存在などから、北条氏の築城術が見られる城とされてきた。つまり、現在残っている遺構は、北条氏の影響が強いと指摘されたのである。これが第2の論点である。 以上、興国寺城全体の様子について簡単に説明した、論点は、
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2)各平坦地の構成 |
興国寺城は、宅地開発などにより地形が改変され、各平坦地の境目が分かりづらくなっている。そのため、各平坦地の規模は、推測の域を出ない。ご容赦いただきたい。 ○本丸『沼津市史』によると、本丸は、土塁を含め最大幅100m、南北130mの規模、とある。 北側土塁上には、東西23m、南北15m程度の平坦地が設けられており、天守台と伝えられている。平坦地の南側には、石垣が残存している。石垣は、織田・豊臣氏が築いた城に見られる特徴であるが、興国寺城の石垣は、基本的に未加工で、石と石との間も広い。このため、萩原・数野両氏は、石垣が設けられた年代について、「天正10年以後の徳川氏の可能性を含め、幅を広げて検討する必要がある」と述べている25)。 なお、「諸国古城之図」には、二の丸から本丸へ入る入口の他に、本丸の南東隅に、「カクシ口」と記された入口が描かれている。「カクシ口」とは隠し口のことだろう。脱出のために設けられた入口なのだろうか? ○二の丸・三の丸二の丸と三の丸については、宅地開発などにより、一部に平坦地が残るのみで、土塁などの遺構は見られない。 |
本丸西側土塁上より本丸を見る 北曲輪から本丸を見る。標高は北曲輪の方が高いのだが、土塁のため、本丸内部の様子は、ここからでは何もうかがえない。 伝天守台の石垣 |
○北曲輪本丸から大空堀を隔てた北側にも平坦地がある。後述する発掘調査報告書では、当該平坦地を北曲輪と呼称している。南北約30m、東西約50mほどの広さを持つ。 ○興国寺城の城外施設について「諸国古城之図」には、興国寺城の左右の山(というより尾根?)沿いに「侍屋敷跡」があったと記されており、興味深い。萩原・数野両氏は、興国寺城から西に尾根1つ隔てた、現在本法寺があるところに、幅の狭い土塁が残っていることから、同寺一帯が「侍屋敷」であった可能性を指摘している26)。 |
3.発掘調査成果 |
興国寺城は、昭和57年(1982)より発掘調査が始まり、平成25年(2013)をめどに、現在も発掘調査が続いている。
調査期間が長く、調査範囲も広いため、ここでは、年度ごとの成果ではなく、各平坦地ごとに分けて、調査成果を述べることとする。 |
1)本丸の発掘調査 |
本丸は、平成12年度に確認調査を行った上で、平成15年度から17年度にかけ、本調査を実施し、城門跡・排水溝・土橋・空堀などの遺構を検出した。なお、遺構の検出位置については、図2を参考にしていただきたい。 ○城門跡城門跡は、本丸の南側中央で検出された。1m前後の大石が6点検出され、その配置から、柱の礎石列で あることが確認された。礎石の配置から、城門は右手に潜り戸を持つものであったと推測されている。 ○排水溝跡排水溝は、本丸の中央部を、南北に縦断する形で検出された。総延長は60m程だが、排水溝の石が抜かれた跡があることから、さらに北側に延びる可能性がある。 |
○空堀・土橋跡本丸と二の丸の境において、空堀と土橋を検出した。 ○その他の遺構その他、本丸北側中央において、石列が検出された。このことから、建物がここに存在したと考えられる。 |
2)二の丸の発掘調査 |
二の丸は、平成12年度に確認調査を行なった上で、平成18年度に本調査を実施し、いわゆる三日月堀と呼ばれる堀と、二の丸の造成状況が確認された。なお、遺構の検出位置については、図3を参考にしていただきたい。 ○三日月堀三日月堀は、本丸と二の丸の境において検出された、空堀のすぐ南で検出された。 今後、興国寺城の発掘調査が進展した上で、改めて考察するべきだと私は考える。 |
図3 興国寺城二の丸の発掘調査成果 |
3)石火矢台の発掘調査 |
本丸の東に位置する石火矢台は、平成14年度に確認調査を行なった上で、平成17年度に本調査を実施し、土塁および空堀が確認された。なお、遺構の検出位置については、図4を参考にしていただきたい。 ○土塁発掘調査の結果、石火矢台は、土塁によって囲まれていることが判明した。また、石火矢台の西側中央において、北側から延びる土塁と、南側から延びる土塁が交差する位置が確認された。南北の土塁は、一直線上に位置せず、やや食い違うように交差している。ここが石火矢台に入る入口であろうか? |
図4 興国寺城石火矢台の発掘調査成果 |
○空堀空堀は、石火矢台の南端、二の丸との境において検出された。平面的には、中央部が膨らんだ弧を描く三日月形で、現地説明会資料によると、堀底は平坦な箱堀、堀幅上端の幅約13m、底部約2m、深さは約3mである。 |
4)伝天守台の発掘調査 |
工事中です……m(_ _)m |
図5 興国寺城伝天守台の発掘調査成果 |
5)北曲輪の発掘調査 |
本丸の東に位置する石火矢台は、平成13年度に確認調査を行なった上で、平成19年度・20年度に本調査を実施し、空堀およびピット群(土坑あるいは方形竪穴。用途や性格は不明とのこと)が確認された。なお、遺構の検出位置については、図6を参考にしていただきたい。 ○空堀北曲輪の発掘調査において、空堀は計3ヶ所検出された。ここでは、その内2ヶ所について述べることとする。 |
図6 興国寺城北曲輪の発掘調査成果 |
なお、空堀は土橋によって左右に切断されている。土橋は、長さ約11m、幅推定4mほどである。土橋の存在から、ここに入口があった可能性が高い。特に入口に工夫は見られず、本丸南端の土橋同様、外側に馬出があった可能性が考えられる。 次に、空堀2である。空堀2は、大空堀のすぐ北側で検出され、現地説明会資料によると、東西の長さ約80m、堀幅約8mの規模で、深さは5〜6mくらいと予想されるという。 ○北曲輪の造成発掘調査の結果、北曲輪の造成時期についても分かってきた。現地説明会資料によると、北曲輪は、空堀2を埋めて造成されたという。また、16世紀末期から17世紀初めに比定される遺物が出土したことにより、北曲輪は、豊臣氏あるいは徳川氏が政権を握った時期に造成されたことが分かった。 |
4.おわりに |
興国寺城は、「北条早雲旗揚げの城」という内容に疑問符がつくものの、今川氏・北条氏・武田氏・中村氏・徳川氏といった有力な戦国大名が、こぞって重要な拠点と認識し、整備・維持してきた点で、静岡県下に誇る屈指の城だといえる。 発掘調査の進展により、今川氏・北条氏・武田氏の時の興国寺城は、現在の姿と大きく異なることが明らかになってきた。圧倒的な存在感を誇る大空堀は、当時存在しなかったし、ビル3階分にあたる土塁も、当時はあったかどうか疑問である。その代わり、丸馬出が設けられ、入口の防御を固めていたことも分かった。今後も興国寺城では発掘調査が続くため、さらに様々な成果があがってくると思われる。興国寺城の全容が明らかになることを大いに期待している。 |
1)↑なお、上松四郎兵衛は、原駅に船1艘を有しており、船にかけられた税を免除されている(天文17年4月9日付今川義元朱印状写「渡辺文書」『静岡県史』資料編7−1899)。原駅に船があったことをうかがわせる史料である。
2)↑黒田基樹「駿河葛山氏と北条氏」(同著『戦国大名領国支配構造』岩田書院、1997年、411頁。)。なお、「河東一乱」については、「北条氏の河東地域領有とはいっても、その実態は葛山氏の北条氏への従属によって成されたもの」と述べている(同著、403頁)。
3)↑黒田基樹「北条氏の駿河防衛と諸城」(『武田氏研究』17、1996年、22頁)。
5)↑「判物証文写附二」(『静岡県史』資料編7−1984・2176など)
7)↑「歴代古案一」(『上越市史』別編1−643)、「矢部文書」(『静岡県史』資料編7−3604)
10)↑「岡宮浅間神社文書」(『静岡県史』資料編8−113)
14)↑「松田仙三氏所蔵文書」(『静岡県史』資料編8−109)、「上杉家文書」(『上越市史』別編1−841・909)、
15)↑「垪和氏古文書」(『静岡県史』資料編8−292・293)
16)↑「中村不能斎採集文書 九」(『戦国遺文』武田氏編−1769)
17)↑「北山本門寺文書」(『戦国遺文』武田氏編−3526)
18)↑「北山本門寺文書」(『戦国遺文』武田氏編−3575)
19)↑「譜牒余録 三十三」(『静岡県史』資料編8−1560)
20)↑「渡辺昭男家文書」、「巨摩郡古文書」(『静岡県史』資料編8−1604・1605)
24)↑矢守一彦編『浅野文庫蔵諸国古城之図』(新人物往来社、1981年、254頁)。これ以降、「諸国古城之図」の説明は、この頁を参照のこと。
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