目次 |
1.お城の歴史 |
1)千福(平山)城の位置 |
千福(平山)城は、裾野市千福字平山に位置する。 図2は、東名高速道路開通前の1955年(昭和30年)千福(平山)城周辺の地形図(トレース)である。 以上の点から、千福(平山)城は、足柄道を扼し、防御の点でも優れた位置に築かれた城であることが分かる。このことから、千福(平山)城は、交通を監視する立場の者、つまり、支配者側が築いた城であると言えよう。 |
図1 現在の千福(平山)城周辺図(Yahoo!地図より引用) 図2 昭和30年の千福(平山)城周辺図(地理調査所発行昭和30年資修「佐野」をもとに作成) |
2)千福(平山)城の歴史 |
@研究史 |
千福(平山)城は、古くから城跡として認識されていた。1820年に桑原藤泰が著した『駿河記』には、千福(平山)城に 1980年代に入ると、全国的に城跡の調査が始まり、現況遺構が確認されていった。静岡県においても調査が行われ、その結果は『静岡県の中世城館跡』にまとめられた。千福(平山)城もこのとき調査が行われ、見取り図と地籍図が掲載されている3)。 以上のように、千福(平山)城は、主に現況遺構の調査(いわゆる縄張り研究)から研究が進められてきた。当時は、文献史料に千福城の名が現れないため、現況遺構から判断するしかない、という認識があったからである。 黒田氏の指摘は、いわゆる縄張り研究者の間にも影響を与えた。水野茂氏は、黒田氏の指摘を全面的に受け入れ、「平山城の現況遺構は、北条氏が築いた縄張である」と述べている6)。 |
A千福(平山)城の歴史 |
A.「駿州錯乱」前の千福(平山)城 |
千福は、昔平山と呼ばれた(現在でも字名で「平山」が残っている)。文明15年(1483)12月の安叟宗楞譲状写に「 |
B.「駿州錯乱」時の千福(平山)城 |
永禄11年(1568)12月、 図3は、深沢開城時の駿河国東部の情勢である。深沢城の開城によって、武田氏は |
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ここでは、3点の史料を検討した上で、黒田氏の指摘について確認していきたい。 |
○史料1 元亀2年6月22日付清水新七郎宛北条氏政判物写 |
史料1は、元亀2年6月22日付清水 この史料から、黒田氏が指摘しているのは、以下の点である。
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史料1 元亀2年6月22日付清水新七郎宛北条氏政判物写
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では、1〜3について、確認してみよう。 まず、1である。「手先」という用語は、管見のあたり見当たらないが、「外張」については、30点ほどの史料で用例が確認されている。そのほとんどが城の一施設を指すものとして用いられており、「外張」が城に関係する用語であることは間違いない(詳しくは「戸張って何??」を参照)。 2、3については明らかであろう。2については、「葛山郷除沢」が「平山外張」であることから、「平山」が葛山郷近辺に所在していることが分かるし、3についても確かである。 ただし、史料1は、『静岡県史』資料編8では要検討文書として扱われている。史料の信憑性について、もう一度再検討する必要があるだろう。 |
○史料2 元亀2年7月1日付垪和伊予守宛北条家朱印状写 |
史料2は、元亀2年7月1日付垪和伊予守宛北条家朱印状写である。 千福(平山)城に焦点を当てた際、この史料で注目されるのは、大宮・蒲原両城が北条氏の元に戻ったあかつきには、全てを氏続に任せるということを、「平山」へも承知させていることである。 |
史料2 元亀2年7月1日付垪和伊予守宛北条家朱印状写
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なお、黒田氏は、史料1で、葛山郷除沢が支配できないと「松田」が申し出ている点に注目し、「松田」を 以上のように、史料2から、千福(平山)城は、元亀2年の段階で、北条氏にとって重要な拠点であったことがうかがえる。 |
○史料3 (元亀3年)正月8日付信竜斎・小幡上総介宛武田信玄書状写 |
史料3は(元亀3年)正月8日付信竜斎・小幡上総介宛武田信玄書状写である。 千福(平山)城に焦点を当てた際、この史料で注目されるのは、 |
史料3 (元亀3年)正月8日付信竜斎・小幡上総介宛武田信玄書状写
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戦国時代、戦国大名同士の間に、同盟や和睦が成立した際、「 私は、両城の機能の差が、「国分」の際の処遇の差につながったのではないか、と考えている。興国寺城は、今川氏以来、駿河東部を統治するための政治的に重要な拠点として機能している。一方、千福(平山)城は、確かに北条氏が構築した重要な拠点ではあったが、その目的は、武田氏の南下を抑え、占領地を確保するためである。つまり、千福(平山)城は、戦争のための純軍事的な城であったといえる。 |
C.その後の千福(平山)城 |
武田氏と北条氏の和睦成立により、駿河国東部の緊張状態は解消された。前述の通り、千福(平山)城は、武田氏によって破却された。 では、その後千福(平山)城は、再利用されたのであろうか? 元亀3年5月11日付の しかし、 |
まとめ |
以上、長くなったが、千福(平山)城の歴史について整理した。まとめると、以下の通りとなる。
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2.お城のつくり |
1)千福(平山)城の構成 |
千福(平山)城については、多くの研究者によって、現況遺構図が描かれている。最近の例では、右図に引用した水野茂氏の図や16)、松井一明氏の図がある17)。 ここで、注意していただきたいのは、現況遺構図に記された名称が、必ずしも昔から使われていた名称ではない、ということである。 |
図4 現在の千福(平山)城跡
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@千福(平山)城南側の遺構について |
千福(平山)城の構成であるが、茶畑や、東名高速道路などによって、地形が大きく変わっており、現在の遺構から千福(平山)城の構成を考察することは、非常に困難なものとなっている。 A「削平地@」「削平地A」について結局、千福(平山)城の遺構として判断できるのは、図 の「削平地@」「削平地A」である。 ここでは、この2つの削平地について紹介することとする。 【削平地@】 「削平地@」は、南北約70m、東西約30mの規模である。水野氏の図、松井氏の図ともに、ここを千福(平山)城の中心と捉えている。 |
写真1(上)・2(下) 石組(?)  図4の赤色の部分に存在する。このような石組は、城跡では見られない。むしろ、寺院(ここでは普明寺)との関係を疑うべきではないだろうか。 |
【削平地A】 |
「削平地A」は、南北約120m、東西20m〜30mほどの規模である。大きく2段に分かれているようだ。 なお、水野氏は、この削平地Aを、前述「千福(平山)城の歴史」であげた史料1に記されている「外張」であると推測し、「6月には清水新七郎が在番し、「外張」の普請をしている」と述べている20)。 |
千福(平山)城「削平地@」(上)・「削平地A(北側)」(下) |
B千福(平山)城の防御意識 |
南側の遺構が、後世の改変によって把握困難になっているが、削平地Aの北端に設けられた二重の堀切は、北側の尾根筋からの攻撃に対する意識の高さをうかがわせる。千福(平山)城は、北側からの攻撃に対処するように造られていたと考えられる。 以上のことから、現在残されている二重の堀切と横堀は、1569年から1571年の間に設けられたのではないだろうか。 |
千福(平山)城「削平地A」北側にある二重の堀切の、南側の堀切。 写真左手が「削平地A」である。窪んでいるのがお分かりいただけるかと思います。 |
3.まとめ |
千福(平山)城について、これまで述べてきたことをここで整理する。 まず、文献史料から、千福(平山)城は、元亀2年(1571)の段階で、北条氏の拠点の城として機能していることが分かった。天正年間(1573〜90)の築城との見解を示した松井氏の説は、修正をする必要があるだろう。 以上のことから、千福(平山)城は、1569年から1571年の間に、北条氏によって築かれ、その時のものが現在でも残っていると考えられる。 2010年7月14日 記述終了 |
1)↑桑原藤泰著、足立鍬太郎校訂『駿河記 下』臨川書店、1974年。
2)↑沼館愛三「駿東地域に於ける城郭の研究」(『静岡県郷土研究』9、1937年、35頁)
3)↑静岡県教育委員会『静岡県の中世城館跡』(静岡県教育委員会、1981年、116・117頁)
4)↑平井聖編『日本城郭大系』9(新人物往来社、1979年、62頁)
5)↑黒田基樹「北条氏の駿河防衛と諸城」(『武田氏研究』16、1996年、25頁。のち『戦国期東国の大名と国衆』岩田書院、2001年再録)
6)↑水野茂「葛山城とかくれ城の一考察」(静岡県古城研究会『古城』50、2004年、85頁)
7)↑加藤理文・中井均編『静岡の山城ベスト50を歩く』(サンライズ出版、2009年、164頁)
8)↑「可睡斎史料所収僧録司文書」(現在のところ調査中につき、『静岡県の地名』平凡社、2000年、378頁より引用とする)
11)↑「普明寺文書」(『戦国遺文 武田氏編』−1761号)
13)↑「普明寺文書」(『戦国遺文 武田氏編』−1871号)
15)↑なお、『静岡県の地名』の普明寺の項目では、「おそらく江戸時代に当寺(普明寺)が相論に際して支証を収集した際に入手したものとみるのが妥当であろう」と記されている(『静岡県の地名』平凡社、2000年、378頁)。
16)↑水野茂「葛山城とかくれ城の一考察」(『古城』50、2004年)
18)↑なお、水野氏は、削平地@の西側に、竪堀が多数存在すると認識している。しかし、現状を見る限り、自然地形であって、竪堀ではないと私は考える。
21)↑また、「駿州錯乱」時、深沢城の後詰として、北条氏政が千福(平山)城に入ったとも述べられている。なぜこのように述べることができるのか、この点についても、論拠が全く示されていない。
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