静岡県のお城静岡県のお城一覧>千福(平山)城




■ 千福(せんぷく平山(ひらやま)城データ ■
所在地裾野市千福字平山
お城が機能した時期16世紀中期
お城の持ち主後北条氏
遺構土塁、堀
オススメ度★★☆☆☆


地図はこちら⇒




目次

  1. お城の歴史

    1. 千福(平山)城の位置


    2. 千福(平山)城の歴史

      1. 研究史


      2. 千福(平山)城の歴史


        1. A.「駿州錯乱」前の千福(平山)城


        2. B.「駿州錯乱」時の千福(平山)城


        3. C.その後の千福(平山)城




  2. お城のつくり

    1. 千福(平山)城の構成


      1. 千福(平山)城南側の遺構について


      2. 「削平地@」「削平地A」について


      3. 千福(平山)城の防御意識




  3. まとめ




1.お城の歴史


1)千福(平山)城の位置

千福(平山)城は、裾野市千福字平山に位置する。
 千福(平山)城の位置であるが、現在は、東名高速道路と国道246号バイパスによって、千福(平山)城の一部と周辺が変えられており、城の立地が分かりにくくなっている(図1)。そのため、開発前の様子をもとに検討する必要がある。

 

図2は、東名高速道路開通前の1955年(昭和30年)千福(平山)城周辺の地形図(トレース)である。
 愛鷹山から続く丘陵が西側から続いてきているが、千福(平山)城の部分が、特に東側に突き出しているのが分かる。
城のすぐ東側には、足柄峠を越えて関東に向かう足柄道(現在の県道394号[旧246号]にほぼ沿う)が通っており、千福城が、足柄道の通行を監視・阻害できる位置にあることが分かる。これは、図では書き切れなかったが、千福(平山)城の南にある大畑城も同様である。このことから、千福(平山)城と大畑城は、足柄道の監視・阻害という共通の役割を持っていたと考えられる。
また、千福(平山)城の東西は、平山川・佐野川によって挟まれている。自然の川を防御に利用した立地となっている。

  

以上の点から、千福(平山)城は、足柄道を扼し、防御の点でも優れた位置に築かれた城であることが分かる。このことから、千福(平山)城は、交通を監視する立場の者、つまり、支配者側が築いた城であると言えよう。


図1 現在の千福(平山)城周辺図(Yahoo!地図より引用)
図2 昭和30年の千福(平山)城周辺図(地理調査所発行昭和30年資修「佐野」をもとに作成)



2)千福(平山)城の歴史



@研究史


千福(平山)城は、古くから城跡として認識されていた。1820年に桑原藤泰が著した『駿河記』には、千福(平山)城に葛山勝吉(かつらやまかつよし長善(ながよしが居城したと記している1)
また、戦前には、沼館愛三氏が、千福(平山)城について記述している。沼館氏は、千福(平山)城について、「構築年代は明らかでないが葛山関係のもので、初め葛山備中守(かつらやまびっちゅうのかみ居住し、後に御宿勘兵衛正倫(みしゅくかんべえまさともが居館した」と述べている2)

1980年代に入ると、全国的に城跡の調査が始まり、現況遺構が確認されていった。静岡県においても調査が行われ、その結果は『静岡県の中世城館跡』にまとめられた。千福(平山)城もこのとき調査が行われ、見取り図と地籍図が掲載されている3)
さらに、同時期に新人物往来社の刊行により『日本城郭大系』がまとめられ、無数に存在する城跡の存在を、大人から子供まで多くの人々が認識する契機となった。ここにも千福(平山)城が掲載され、現況遺構の様子が記されている。殊に、末尾に、「千福城の規模は、葛山城(かつらやまじょう・大畑城より大きく、縄張りもこの二城と異なる点を多く見出すことができる。遺構から判断すると、従来の葛山氏築城説でなく、もう少し後期の創築ではなかろうか。(中略) すなわち築城者は、北条氏とも考えられるのである。」との見解をあげている点は、当時の見解に疑問を投げかけた点で注目される4)

以上のように、千福(平山)城は、主に現況遺構の調査(いわゆる縄張り研究)から研究が進められてきた。当時は、文献史料に千福城の名が現れないため、現況遺構から判断するしかない、という認識があったからである。
そのような認識を改めることとなったのが、黒田基樹氏が1996年に発表した論文、「北条氏の駿河防衛と諸城」である。黒田氏は、永禄(えいろく11年(1568)から元亀(げんき2年(1571)までの、今川・武田・北条氏の争い、いわゆる「駿州錯乱(すんしゅうさくらん」の戦況を分析をする中で、元亀2年から史料に現れる「平山」について、これが現在の千福城跡であると指摘し、元亀元年正月の深沢城開城後に、北条氏によって新たに築かれたものであると述べた5)

黒田氏の指摘は、いわゆる縄張り研究者の間にも影響を与えた。水野茂氏は、黒田氏の指摘を全面的に受け入れ、「平山城の現況遺構は、北条氏が築いた縄張である」と述べている6)
一方で、松井一明氏は、現況遺構から、「現在見ることのできる城跡の姿は、葛山城の二重堀切、横堀の規模よりも大きく秋からに新しい要素と見られるため、天正年間に築城されたと推測される」と述べており、天正年間(1573〜90)の築城との見解を示している7)



A千福(平山)城の歴史


A.「駿州錯乱」前の千福(平山)城


千福は、昔平山と呼ばれた(現在でも字名で「平山」が残っている)。文明15年(1483)12月の安叟宗楞譲状写に御厨(みくりや之内、葛山郷平山田地」とあるのが、地名としての平山の初見である8)。 16世紀になると、駿河国東部の国人、葛山氏の影響下に入っていったようである。そのことは、天文8年(1539)4月12日葛山氏広(うじひろ後室朱印状で、「引物之木」(槻の木)を取ることができる山として、「堀内山・千福山・北山・今里山・下和田山」の5つの山が認められていることから窺える9)この「千福山」が、現在の千福(平山)城跡を指すと推測されているが10)、この頃、千福(平山)城が存在していたかは定かではない。
また、天文6年から始まった、北条氏綱(ほうじょううじつなによる駿河国への侵攻(いわゆる「河東一乱」)の際、北条氏が富士川以東を占拠したが、北条氏の拠点は、富士川沿いの吉原城と、天文14年に今川氏と攻防が繰り広げれた長久保(ながくぼ城であり、千福(平山)城が北条氏の拠点として機能した形跡はない。

なお、天文14年10月6日に、武田家が普明寺(ふみょうじ(現在は千福(平山)城の麓にあり)に禁制を発給しており、普明寺への軍勢の濫妨狼藉(らんぼうろうぜきを禁止している11)


B.「駿州錯乱」時の千福(平山)城


永禄11年(1568)12月、武田信玄(たけだしんげんが駿河国に侵攻し、今川氏真(いまがわうじざねを遠江国懸川城へ追いやった。いわゆる「駿州錯乱」である。この時、葛山氏は信玄に与したもの、氏真の救援のため駿河国に出陣した北条氏によって、一時領地を失った。これにより、駿河国東部は、北条氏の影響下に入っていく。
当初こそ、北条氏は、信玄を興津(おきつ城に封じ込め、今川氏真と徳川家康を和睦させ、氏真を引き取り、さらには氏真から名跡を譲られるなど、戦況を優位に進めていたものの、永禄12年7月に大宮城が開城すると、一転して守勢に立たされた。同年12月には蒲原(かんばら城が落城し、北条氏信(ほうじょううじのぶと富士川以西の拠点を失い、元亀2年(1571)正月には、永禄12年6月に構築した深沢城が開城、現在の富士宮(ふじのみや御殿場(ごてんば地域の拠点を失った(詳細は「駿州錯乱」を参照)。

図3は、深沢開城時の駿河国東部の情勢である。深沢城の開城によって、武田氏は相模(さがみ国を至近に捉え、さらには、南下して興国寺城や韮山城を攻撃できる態勢が整った。実際、深沢城開城前の元亀元年8月、武田信玄は、黄瀬川に陣取り、興国寺城・韮山城を攻撃している。深沢城開城によって、興国寺城・韮山城への攻撃の可能性が高まり、北条氏としては、守備態勢の再強化が必須となっていた。
このような状況の中、俄かに文献史料に現れてくるのが、「平山」である。「平山」が記されている史料は、以下の3点である。




No年月日差出人受取人出典
元亀2.6.22北条氏政清水新七郎「清水一岳氏所蔵文書」(『静岡県史』資料編8−340号)
元亀2.7.1北条家垪和伊予守「垪和家古文書」(『静岡県史』資料編8−342号)
(元亀3)正.28武田信玄信竜斎・小幡上総介「中村不能斎採集文書」(『戦国遺文』武田氏編−1769号)


ここでは、3点の史料を検討した上で、黒田氏の指摘について確認していきたい。



○史料1 元亀2年6月22日付清水新七郎宛北条氏政判物写

史料1は、元亀2年6月22日付清水新七郎(しんしちろう北条氏政(ほうじょううじまさ判物写である。
この史料では、葛山郷除沢について、松田氏の申し出を受け、清水新七郎が除沢を「平山」に付けることを承諾し、北条氏政がこれを賞して、伊豆国田代郷300貫文の代官に任じたことなどが記されている。

この史料から、黒田氏が指摘しているのは、以下の点である。

  1. 外張(とばり」「手先」という用語が用いられていることから、「平山」は城の名前である。

  2. 葛山郷が「平山」の「外張」に所在していたことから、「平山」は葛山郷近辺に所在していた。

  3. 千福城が築かれている山は、「城山」「平山」と称されている。

  4. 以上1〜3により、「平山」は千福城をさす。


史料1  元亀2年6月22日付清水新七郎宛北条氏政判物写


では、1〜3について、確認してみよう。

まず、1である。「手先」という用語は、管見のあたり見当たらないが、「外張」については、30点ほどの史料で用例が確認されている。そのほとんどが城の一施設を指すものとして用いられており、「外張」が城に関係する用語であることは間違いない(詳しくは「戸張って何??」を参照)。
よって、黒田氏の指摘通り、「平山」が地名や人名ではなく、城の名前を指すものであるといえる。

2、3については明らかであろう。2については、「葛山郷除沢」が「平山外張」であることから、「平山」が葛山郷近辺に所在していることが分かるし、3についても確かである。
よって、黒田氏の指摘通り、「平山」は、千福城跡を指すといえる。これにより、千福(平山)城は、元亀2年の段階で城として機能していることが分かり、天正年間(1573〜90)の築城との見解を示した松井氏の説は、修正をする必要があるだろう。

ただし、史料1は、『静岡県史』資料編8では要検討文書として扱われている。史料の信憑性について、もう一度再検討する必要があるだろう。



○史料2 元亀2年7月1日付垪和伊予守宛北条家朱印状写

史料2は、元亀2年7月1日付垪和伊予守宛北条家朱印状写である。
この史料では、垪和伊予守(氏続)(はがいよのかみ(うじつぐ)に、興国寺城在城につき、知行役銭を免除するとともに、現在武田氏が保有している拠点、大宮城や蒲原城なりが「落居」(解決する=攻略する)したならば、全てを任せることを指示したものである(資料解釈については、竹氏の指摘を受けました。ここに記して感謝いたします)

千福(平山)城に焦点を当てた際、この史料で注目されるのは、大宮・蒲原両城が北条氏の元に戻ったあかつきには、全てを氏続に任せるということを、「平山」へも承知させていることである。
このことから、千福(平山)城には、垪和氏続に与えた指示を承知させる必要があるほどの、重要な人物がいたことが分かる。



史料2  元亀2年7月1日付垪和伊予守宛北条家朱印状写

なお、黒田氏は、史料1で、葛山郷除沢が支配できないと「松田」が申し出ている点に注目し、「松田」を松田憲秀(まつだのりひでと比定している12)

以上のように、史料2から、千福(平山)城は、元亀2年の段階で、北条氏にとって重要な拠点であったことがうかがえる。



○史料3 (元亀3年)正月8日付信竜斎・小幡上総介宛武田信玄書状写

史料3は(元亀3年)正月8日付信竜斎・小幡上総介宛武田信玄書状写である。
この史料では、武田信玄が、信竜斎(小幡憲重)(しんりゅうさい(おばたのりしげ)・小幡上総介(信真)(かずさのすけ(のぶさね)に対し、上野国石蔵城の陥落を嘆くとともに、駿河国を平定したことを告げ、来月10日に関東に出陣することを告げたものである。

千福(平山)城に焦点を当てた際、この史料で注目されるのは、追而書(おってがき(中世の書状による見られた書式で、書状本文の内容とは関係のない事柄を書状の端か礼紙などの別紙に書き添えること)の中に、「氏政遂和睦候、其上興国寺請取、平山破却、駿州平均可御心易候」と、北条氏政と和睦(わぼくを遂げ、その上で、興国寺城を受け取り、平山城を破却(はきゃくしたと記されていることである。


史料3  (元亀3年)正月8日付信竜斎・小幡上総介宛武田信玄書状写

戦国時代、戦国大名同士の間に、同盟や和睦が成立した際、「国分(こくぶ」と呼ばれる、互いの領土の分割・割譲による確定作業が行われた。今回の武田氏と北条氏との和睦についても「国分」が行われ、駿河国の「国分」については、黄瀬川(きせがわを境に、西側が武田氏領、東側が北条氏領と決められている。
この際、領土の分割・割譲ともに問題となったのが、城の処分であった。駿河国の国分では、興国寺城と千福(平山)城の処遇が記されている。このことから、両城が、駿河東部における北条氏の重要拠点であったことがうかがえる。
また、興国寺城は、武田氏に接収され、その後も利用されている一方で、千福(平山)城については、破却されており、両城の処遇に差があった点も見逃せない。なぜ、興国寺城は利用され、千福(平山)城は利用されなかったのであろうか?

私は、両城の機能の差が、「国分」の際の処遇の差につながったのではないか、と考えている。興国寺城は、今川氏以来、駿河東部を統治するための政治的に重要な拠点として機能している。一方、千福(平山)城は、確かに北条氏が構築した重要な拠点ではあったが、その目的は、武田氏の南下を抑え、占領地を確保するためである。つまり、千福(平山)城は、戦争のための純軍事的な城であったといえる。
このように、支配・統治の拠点として政治的な機能を持っているか否か、この点が、処遇を分ける主要な要因になったのではないかと考える。



C.その後の千福(平山)城


武田氏と北条氏の和睦成立により、駿河国東部の緊張状態は解消された。前述の通り、千福(平山)城は、武田氏によって破却された。

では、その後千福(平山)城は、再利用されたのであろうか?

元亀3年5月11日付の見性寺(けんしょうじ宛武田信玄判物では、「寺産之儀者、御宿監物当知行候条」と、見性寺の寺領が御宿監物の知行となっていると記されている13)
この見性寺が、普明寺の旧名であるとされ、普明寺が御宿氏の居館跡であった、という考えられているが14)、すでに天文14年の段階で、普明寺の名称が使われていることから、見性寺が普明寺の旧名であるとは言えず、別の寺院であると考えられる15)
以上のことから、千福(平山)城が、御宿氏によって保有、維持されていたとは、考えられない。

しかし、天正(てんしょう7年(1579)8月、武田勝頼(たけだかつよりが、三枚橋城(さんまいばし(沼津城)を構築し、北条氏と再び対立した際、千福(平山)城が再び使用されたことは、十分考えられる。ただ、武田氏の重要拠点は、三枚橋(沼津)城、北条氏の重要拠点は、泉頭(いずみかしら城と戸倉城と、いずれも黄瀬川の河口付近に集中していた。そのため、千福(平山)城は、「駿州錯乱」時のような、重要拠点として機能せず、街道・河川監視・補給路確保といった役割にとどまったものと考えられる。
そのため、この時期に、千福(平山)城が、大きく改修されたとは考えにくい。多方面に敵を抱え、三枚橋(沼津)城の構築に莫大な労力と費用をかけていた武田氏の状況から察して、破却されていた城の原状復帰と、多少の改修が精一杯なのではないだろうか。
以上のことから、千福(平山)城の現況遺構の基本部分は、「駿州錯乱」の時期に成立したと考えられる。



まとめ


以上、長くなったが、千福(平山)城の歴史について整理した。まとめると、以下の通りとなる。

  1. 黒田氏の指摘の通り、史料中に見られる「平山」は、千福城のことである。


  2. 千福(平山)城は、「駿州錯乱」の際、武田氏の南下を抑えるために、北条氏によって構築された。天正年間に築城したとする松井氏の説は、修正が必要である。


  3. 「駿州錯乱」後、千福(平山)城は破却され、廃城となった。その後、武田氏と北条氏の際対立の際に再び活用された可能性はあるが、重要拠点として機能しておらず、大規模な改修が行われたとは考えにくい。よって、現況遺構の基本部分は、「駿州錯乱」の時期に成立したと考えられる。






2.お城のつくり


1)千福(平山)城の構成

千福(平山)城については、多くの研究者によって、現況遺構図が描かれている。最近の例では、右図に引用した水野茂氏の図16)松井一明氏の図がある17)

ここで、注意していただきたいのは、現況遺構図に記された名称が、必ずしも昔から使われていた名称ではない、ということである。
例えば、右図の水野氏の現況遺構図では、に、「本城(ほんじょう」や「中城(ちゅうじょう」といった呼び名が、松井氏の図では、「本曲輪」「二曲輪」「出曲輪」「馬場曲輪」といった呼び名が付けられているが、これらは、主に研究者によって付けられた名であり、戦国時代当時に使われていた確証はない。図に記された名称が、当時のものではないということ。これを頭に入れておいていただきたい。
ここでは、各研究者により名称がばらばらであり、また、発掘調査が行われておらず、呼び名が統一されていないので、人工的に造られた平坦地(いわゆる曲輪(くるわ)を、「削平地@」「削平地A」という呼び方で表すこととする。


図4  現在の千福(平山)城跡

@千福(平山)城南側の遺構について


千福(平山)城の構成であるが、茶畑や、東名高速道路などによって、地形が大きく変わっており、現在の遺構から千福(平山)城の構成を考察することは、非常に困難なものとなっている。
に、図4の「削平地@」の南側は、大きく変わっている。その原因として、茶畑の存在があげられるが、その他にも、普明寺の裏山にあたる平地では、写真1・2のような石組(?)が見られ(場所は、図4の赤色の部分)、改変された形跡がうかがえる。
このことから、図 の「削平地@」の南側は、城だけではなく、寺院の裏山など、後の再利用も含めて考える必要があるだろう。今回は、この部分について検討は先送りとし、今後の検討課題とすることで、ご容赦いただければと思う。



A「削平地@」「削平地A」について


結局、千福(平山)城の遺構として判断できるのは、図 の「削平地@」「削平地A」である。  ここでは、この2つの削平地について紹介することとする。

【削平地@】

「削平地@」は、南北約70m、東西約30mの規模である。水野氏の図、松井氏の図ともに、ここを千福(平山)城の中心と捉えている。
削平地@は、現状を見る限り、綺麗に整地されてはおらず、やや自然地形の名残が見られる。中心となる削平地と捉えられている割には、少し土地造成が甘いように思える。
北西側にある削平地Aとは、幅10m以上ある堀切(ほりきりによって遮断されている18)


写真1(上)・2(下)  石組(?)  図4の赤色の部分に存在する。このような石組は、城跡では見られない。むしろ、寺院(ここでは普明寺)との関係を疑うべきではないだろうか。



【削平地A】

「削平地A」は、南北約120m、東西20m〜30mほどの規模である。大きく2段に分かれているようだ。
ともに、草木が生い茂っており、現状の把握は難しい。しかしながら、削平地@以上に、自然地形が残っており、土地造成が甘い。
「削平地A」の西側には、2本から3本の竪堀が綺麗に残っている。東側には、大きな横堀がめぐり、北側は、二重の堀切によって遮断されている。
いずれも規模が大きく、、松井氏は、これをもって、千福(平山)城が天正年間に築かれた論拠とした19)

なお、水野氏は、この削平地Aを、前述「千福(平山)城の歴史」であげた史料1に記されている「外張」であると推測し、「6月には清水新七郎が在番し、「外張」の普請をしている」と述べている20)
しかし、史料1では、清水新七郎が千福(平山)城に在番したことも、「外張」の普請をしたことも全く書いていない。史料解釈のミスである。また、なぜ「外張」を削平地Aと断定できるのであろうか。その論拠も示されていない。以上のように、水野氏の千福(平山)城に関する論は、非常に問題点が多い。今後明確な論拠を示していただけるものと期待したい21)


千福(平山)城「削平地@」(上)・「削平地A(北側)」(下)  

B千福(平山)城の防御意識


南側の遺構が、後世の改変によって把握困難になっているが、削平地Aの北端に設けられた二重の堀切は、北側の尾根筋からの攻撃に対する意識の高さをうかがわせる。千福(平山)城は、北側からの攻撃に対処するように造られていたと考えられる。
北側からの攻撃を受ける可能性があった時期は、1569年から1571年の、武田氏と北条氏の抗争、いわゆる「駿州錯乱」の時期以外にない。1579年から始まった北条氏との抗争において、駿河国(黄瀬川以東を除く)及び、御厨地方の拠点である深沢城は、武田氏が保有しており、北側の尾根から攻撃を受ける心配がまずないからである。

以上のことから、現在残されている二重の堀切と横堀は、1569年から1571年の間に設けられたのではないだろうか。


千福(平山)城「削平地A」北側にある二重の堀切の、南側の堀切。
写真左手が「削平地A」である。窪んでいるのがお分かりいただけるかと思います。



3.まとめ


千福(平山)城について、これまで述べてきたことをここで整理する。

まず、文献史料から、千福(平山)城は、元亀2年(1571)の段階で、北条氏の拠点の城として機能していることが分かった。天正年間(1573〜90)の築城との見解を示した松井氏の説は、修正をする必要があるだろう。
また、現在残されている遺構から見ても、南側の遺構が、後世の改変によって把握困難になっているが、千福(平山)城は、北側からの攻撃に対処するように造られていたと考えられる。北側からの攻撃を受ける可能性があった時期は、1569年から1571年の、武田氏と北条氏の抗争、いわゆる「駿州錯乱」の時期以外になく、現在残されている二重の堀切と横堀は、1569年から1571年の間に設けられた可能性がある。

以上のことから、千福(平山)城は、1569年から1571年の間に、北条氏によって築かれ、その時のものが現在でも残っていると考えられる。





2010年7月14日 記述終了




1)桑原藤泰著、足立鍬太郎校訂『駿河記 下』臨川書店、1974年。

2)沼館愛三「駿東地域に於ける城郭の研究」(『静岡県郷土研究』9、1937年、35頁)

3)静岡県教育委員会『静岡県の中世城館跡』(静岡県教育委員会、1981年、116・117頁)

4)平井聖編『日本城郭大系』9(新人物往来社、1979年、62頁)

5)黒田基樹「北条氏の駿河防衛と諸城」(『武田氏研究』16、1996年、25頁。のち『戦国期東国の大名と国衆』岩田書院、2001年再録)

6)水野茂「葛山城とかくれ城の一考察」(静岡県古城研究会『古城』50、2004年、85頁)

7)加藤理文・中井均編『静岡の山城ベスト50を歩く』(サンライズ出版、2009年、164頁)

8)「可睡斎史料所収僧録司文書」(現在のところ調査中につき、『静岡県の地名』平凡社、2000年、378頁より引用とする)

9) 「山田文書」(『静岡県史』通史編7―1489号)

10)『静岡県の地名』平凡社、2000年、378頁

11)「普明寺文書」(『戦国遺文 武田氏編』−1761号)

12)註5論文、25頁。

13)「普明寺文書」(『戦国遺文 武田氏編』−1871号)

14)註3文献、116頁。及び、註7文献、162頁。

15)なお、『静岡県の地名』の普明寺の項目では、「おそらく江戸時代に当寺(普明寺)が相論に際して支証を収集した際に入手したものとみるのが妥当であろう」と記されている(『静岡県の地名』平凡社、2000年、378頁)。

16)水野茂「葛山城とかくれ城の一考察」(『古城』50、2004年)

17)註7文献、164頁。

18)なお、水野氏は、削平地@の西側に、竪堀が多数存在すると認識している。しかし、現状を見る限り、自然地形であって、竪堀ではないと私は考える。

19)註7文献、164頁。

20)註16文献、85頁。

21)また、「駿州錯乱」時、深沢城の後詰として、北条氏政が千福(平山)城に入ったとも述べられている。なぜこのように述べることができるのか、この点についても、論拠が全く示されていない。





ページ最上部に戻る


トップページに戻る


※このHPの記事、写真、図などについて、出典元がこのHPであることを明記していれば、他のサイト、出版物等に転載してもかまいません。ただし、mixi内のサイトへの転載は一切禁止します。

本サイトは、著作権による保護の対象となります。従いまして、無断による複製及び転載、転用を固く禁じます。
COPYRIGHT(C) 2010 H Taizo ALL RIGHTS RESERVED.



inserted by FC2 system