静岡県のお城お城の専門用語辞典>か行











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かわらけ

かわらけとは、皿の形をした素焼き(釉[うわぐすり]をかけないでそのまま焼くこと)の土器のことです。現在でも、神社でお神酒をいただくときに使われています。「土師器(はじき)」「土師質土器」とも呼ばれます。

かわらけは、鎌倉時代から武家を中心に普及し、食器として、宴会用の使い捨て食器として、さらには、灯明皿(とうみょうざら。現在の明かり)として使われました。

私は、中世から近世までのかわらけを手にとって、接合や石膏入れをしたことがあるんですが、ちょっと触っただけで手に土がついちゃうんです。
「これにご飯入れたら、ご飯が茶色になるな(泣)」と思いました。
研究者の方々も同じことを思っているみたいで、作りが雑で使いにくいこと、壊れていない製品が大量に埋められている場合が多いことなどから、日常的な食器というよりは、儀式などで主に使われていたと考えられるようになってきていますね。



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鳥越城跡(石川県)出土かわらけ



曲輪(くるわ)

曲輪とは、お城の中に、建物を建てたり、人を寝泊まりさせたりするために設けられた平坦地のことです。

現在多くの人が目にするお城(姫路城とか)は、その区画ごとに、「本丸」「二の丸」「三の丸」といった名称がついています。お城は、「○○丸」と呼ばれる、区画された平坦地が集合することで成り立っています。
しかし、この「○○丸」という名称が付けられ始めたのは、1570年代以降のことです。では、それ以前には、どのような名称が付けられていたのでしょうか?
下に書かれた史料をご覧ください。

「如寄先書候、徳一色落居、元来堅固之地利ニ候之間、不及普請、本城三枝土佐守、二・三之曲輪、朝比奈駿河守・同名筑前守在城」
(訳:先の書状で述べた通り、徳一色城が陥落した。元々防御力の高い地形であるので、工事は行わず、「本城」に三枝さんを、「二・三之曲輪」には朝比奈さんを配置した)

これは、元亀元年(1570)、武田信玄が送った書状に書かれているものです(「高山吉重氏所蔵文書」『戦国異文』武田氏編−1515号)。
徳一色城、というのは、現在の藤枝市にあった田中城の前身です。その「本城」と「二・三之曲輪」に、人が置かれてることが分かります。
他には、このような名称も使われていますよ。

「去五日、於三州田原大原、最前合鎗無比類働、甚以神妙」
(訳:去る5日に、三河国田原城の大原構[かまえ]で、槍を合わせ、比類ない働きをしたこと、非常に神妙です。)

これは、天文16年(1547)に、今川義元が発給した判物(はんもつ)です(「記録御用所本古文書 八上」『静岡県』資料編7−1863号)。
ここの「大原構」は、田原城の一部を指すものと考えられます。

このように、「○○丸」以前は、「○○城」「○○曲輪」「○○構」と言った名称が使われていました。
しかし、これらの名称も、戦国時代以前からずっとあった…というわけではありません。だいたいですが、15世紀後半、有名な応仁の乱以降に史料に記されるようになっていくのです。
「じゃあ、南北朝時代の城とかはどうなのよ?」となるわけですが、実は…、


それを表す言葉がないんです!!


一応、南北朝時代の史料には、「一木戸」「二木戸」「西木戸」などの言葉があり、お城が複数の「木戸」によって守られていたことが分かっています。「軍忠状」(ぐんちゅうじょう。合戦で手柄を立てた武士が、「俺はこんな手柄をあげたんだぜ!」と上司に報告する文書)の記述も、ほとんどが「木戸」での攻防なのです。戦国時代のように、「俺はここの曲輪を占拠したぜ!!」と自慢している軍忠状は全くないんです。

このように、南北朝時代と戦国時代とでは、「城」の認識に違いがあるんじゃないか??と私は思っています(確証はありません……)。



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