静岡県のお城静岡県の戦国時代>武田勝頼と徳川家康…駿河・遠江両国をめぐる熾烈な争い





元亀4年(1573)4月12日、武田信玄が死去した。享年53歳である。各地に敵を持っていた織田信長、前年12月に三方ヶ原の戦いで敗北し、三河国内まで武田氏の侵攻を許していた徳川家康は、信玄の死によりひとまず窮地を脱し、反転攻勢に移るべく行動を開始した。
一方、信玄の跡を継いだ武田勝頼は、信玄の死による味方の動揺・敵の反攻を抑えようと努めながら、信玄の戦略を継承し、再度織田・徳川両氏に立ち向かっていく。

ここでは、元亀4年4月の武田信玄の死去から、天正6年(1578)3月に勃発する「御館(おたて)の乱」までの、武田勝頼と徳川家康の駿河・遠江両国(一部三河国も含む)をめぐる争いの経過を、編年形式で追うものである。






目次

  1. 元亀4年(=天正元年、1573)

    1. 周辺地域の動向


    2. 駿河・遠江・三河国の動向


  2. 天正2年(1574)

    1. 周辺地域の動向


    2. 駿河・遠江・三河国の動向


  3. 天正3年(1575)

    1. 周辺地域の動向


    2. 駿河・遠江・三河国の動向


  4. 天正4年(1576)

    1. 周辺地域の動向


    2. 駿河・遠江・三河国の動向


  5. 天正5年(1577)・天正6年(1578)3月まで

    1. 周辺地域の動向


    2. 駿河・遠江・三河国の動向








1.元亀4年(=天正元年、1573)


1)周辺地域の動向

元亀4年(1573)4月12日、武田信玄が死去した。その時点での主な諸勢力の勢力図は、右図の通りである。

○織田信長の動向

元亀4年4月の時点で、織田信長・徳川家康の陣営は、不利な状況下にあったといえる。
戦略的には、将軍足利義昭を軸として築かれた包囲網により、周囲に敵が存在する状況であった。盟友家康も前年12月、遠江国三方原で信玄と合戦に及び敗北、元亀4年2月に三河国野田城が陥落しており1)、心許ない。また、上杉謙信と同盟を結び、信玄の牽制にあたらせようと試みたが2)謙信は越中・加賀一向一揆の対処に追われ3)、同盟締結の成果はあがっていない状況であった。

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図1 武田信玄死去時の勢力図(元亀4年4月)
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戦術的にも、前年11月に美濃国岩村城の遠山氏が武田信玄に従属、信長の本拠岐阜を攻撃する橋頭堡を築かれ4)元亀4年2月には、将軍足利義昭が挙兵したが、信長自ら上洛し攻撃を行った結果、こちらは4月に講和が成立している5)しかし、両者の講和が一時的なものであることは明らかであり6)、予断を許さない状況であった。

しかし、信長が最も懸念していた7)武田信玄が死去したことにより、戦況は大きく変化する。
7月、足利義昭がやはり再度挙兵したが、これを一蹴8)8月には、朝倉・浅井両氏を滅ぼし、包囲網を崩すことに成功した9)10月には伊勢国に出陣し、一向一揆に攻撃を加えている10)


○上杉謙信の動向

前述の通り、上杉謙信は、越中・加賀一向一揆の対処に追われていた。
元亀3年8月から越中国に出陣している謙信は、元亀4年正月、一向一揆側の懇願を受諾し、富山城を接収、途中まで帰陣したが、武田信玄の使僧長延寺実了の策略により、一向一揆が再び富山に戻る事態となった11)
謙信は、越中国に引き返し、一向一揆を富山に押し込め12)、、動きを封じた上で、4月21日に越後国春日山に帰陣した13)

そのような中で、武田信玄死去の噂が謙信のもとに伝わる14)。この時点では、まだ疑問の余地があったようだが、6月には確信に変わっていたようで、謙信が長尾憲景に送った書状の中で、「信玄果候儀必然候(訳:信玄が死去したのは確実である)」と述べている15)

しかし、謙信は、その後も一向一揆の対処に追われ、8月に再び越中国に出陣した16)折しも同じ時期、北条氏により下総国関宿城が攻撃を受け、謙信のもとに救援の依頼が来ていたが17)越中国の平定を重視したことと18)度重なる出陣のため兵が疲労したため19)、それに即応することはできず、来年に持ち越した。


○北条氏政の動向

元亀4年の北条氏政の動向は、上杉謙信の動向に合わせたものであった、と言えよう。

2月、北条氏は、上杉方である武蔵国深谷城と羽生城を攻撃した20)これは、上杉謙信が越中国に出陣した隙をついてのものだったが21)、両城の攻略には至らなかった。

4月、武田信玄が死去したが、その事実は北条氏にもすぐには知らされなかった22)7月、武田勝頼の「家督相続」という形で、両氏は誓紙を交換、先代に引き続き同盟関係を継続することを確認した23)

7月末、北条氏政は出陣、武蔵国小松に陣取った24)さらに、北条氏照が武蔵・下総衆を動員し、簗田氏の本拠下総国関宿へ攻撃を開始した25)。いわゆる「第3次関宿合戦」である。簗田氏は、上杉謙信に救援を依頼したが、前述の通り、謙信は越中国に出陣しており、即応できなかった26)。北条氏は、またしても謙信の軍事行動による隙をついたのである。
こうした、武蔵国深谷・羽生及び下総国関宿をめぐる動きは、翌天正2年も続いていく。



2)駿河・遠江・三河国の動向




1)2月16日付東老軒宛武田信玄書状(「万代家手鑑」『戦国遺文』武田氏編−2021号)。

2)11月20日付上杉謙信宛織田信長書状(「真田宝物館所蔵」『上越市史』別編1−1131号)。

3)3月5日付游足庵淳相宛上杉謙信書状(「上杉家文書」『上越市史』別編1−1143号)など。

4)11月19日付朝倉義景宛武田信玄書状(「徳川黎明会所蔵文書」『戦国遺文』武田氏編−1989号)など。

5)足利義昭の挙兵については、3月7日付細川藤孝宛織田信長黒印状(「永青文庫所蔵文書」『愛知県史』資料編11−872号)など。講和については、元亀4年4月27日付一色藤長等宛林秀貞等連署起請文前書案(『和簡礼経』下座右抄九、『織田信長文書の研究』上巻−371号)など。

6)例えば、元亀4年に比定される、5月21日付一色藤長宛佐久間信盛書状には、「先日各御誓紙、信長年寄共以血判申定候之処、何かと世上執沙汰、如何之儀候哉」とあり、起請文提出後も、世上の風評が穏やかでない、と記されている。世論では、織田信長と足利義昭の講和について、疑問視するものがいたことがうかがえる。

7)織田信長は、元亀4年9月7日付毛利輝元・小早川隆景宛織田信長書状(「乃美文書正写」『静岡県史』資料編8−668号)の中で、「甲州之信玄病死候、其跡之躰難相続候」と、武田信玄が病死し、その後は続きにくいと述べている。信長は、信玄の存在が大きく、そのため、その後継者が苦労するという認識を持っていた。また、伊達輝宗への書状の中でも、信玄の病死について触れており(12月28日付伊達輝宗宛織田信長朱印状「伊達家文書」『織田信長文書の研究』上巻−430号)、武田信玄の病死が、信長にとって非常に大きなものであったことがうかがえる。

8)8月20日付上杉謙信宛織田信長朱印状(「西本願寺所蔵」『上越市史』別編1−1171号)など。

9)元亀4年9月7日付毛利輝元・小早川隆景宛織田信長書状(「乃美文書正写」『静岡県史』資料編8−668号)など。

10)10月12日付小早川隆景宛織田信長書状(『小早川家文書』一、『織田信長文書の研究』上巻−413号)など。

11)「上杉家文書」『上越市史』別編1−1139号。

12)註11史料。

13)「歴代古案 十二」『上越市史』別編1−1150号。

14)河田長親は、4月晦日に吉江資堅に送った書状の中で、「信玄の死去が確実であるとの噂が廻っている。病気であることは疑いないと思う。塩屋秋貞が近日来る予定なので、その際詳しく訪ね、確かな情報を申し上げるつもりだ」と述べている(「吉江文書」『上越市史』別編1−1153号)。

15)「越佐史料 五」『上越市史』別編1−1161号。

16)「山形大学附属図書館所蔵文書」『上越市史』別編1−1168号、「維宝堂古文書」『上越市史』別編1−1170号。

17)「小田部好伸氏所蔵文書1号」『千葉県史』資料編中世4−397頁。

18)「維宝堂古文書」『上越市史』別編1−1170号。

19)「下条文書」『上越市史』別編1−1181号。

20)「結城寺文書」『戦国遺文』後北条氏編−1633号。

21)註11史料。

22)6月21日に大藤与七に送った書状では、「病気が回復せず花押が書けなかった」と述べている(「諸州古文書 五」『戦国遺文』武田氏編−2128号)。

23)「秋山吉次郎氏所蔵文書」『愛知県史』資料編11−892号。

24)「常陸遺文1号」『千葉県史』資料編中世4−521頁。

25)註17史料。

26)註17〜19史料。



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